第34話 「夫婦の仲」

文字数 1,844文字

 たった三ページで終わるショートショート。字数にすれば、2000字もない。
 でもこの山川さんの作品、問答無用に愉しい。
 ストーリーをかいつまんで紹介すれば…

 六本木のおシャレなバーで二人は出逢った。
 モダン・ジャズの話をし、彼は トウモロコシ製の I・W・ハーパーを飲み、彼女はナポレオンのブランデーを飲み、飲むほどに理知的、鋭くセンスのいい言葉を濫発する彼女に、彼は惹かれはじめる。
 そして二人は結婚する。彼女は女子大出のテレビアナウンサーで、彼は売り出し中のシナリオライター。

『 新居の壁にはモダン・ジャズのレコード・ジャケットが並び、二人はそれぞれのお気に入りの洋酒を飲み、「私はなんたってセロニアス・モンクね」とか「僕はやっぱりジェリー・マリガンだな」などと言い合って、幸福な日々を送っていた。
 だが、彼はつい数年前まで小劇団の座付作者で、仲間たちと場末の飲み屋で二級酒やウメワリを飲む、ウダツのあがらない田舎出の演劇青年だった。それが、ふとしたきっかけで認められ、映画やテレビで大金が入るようになり、憧れの知的で都会的な女性を妻にもつまでの身分になった。── いわば彼には、いつも「上品」で「知的」で「洗練」された、「都会的」な自分を演技しているような日々が続いていたのだった。

 だから、二人にとって最初のお中元の季節になり、家への到来物の中に日本酒が一本あるのを見つけた時、彼の郷愁は爆発した。飲もうと主張したのである。新妻は眉をひそめ、こういうお酒は私たちの生活のムードに合わないのじゃないかしら、と反対した。だが彼は、酒屋に引き取らせても安くタタかれる、損しちゃうよ、などと言って彼女を説得した。
 … 二人は飲み始める。彼にとって、久しぶりの日本酒はやはり格別だった。すっかりいい気持ちになった彼は、かつて場末の飲み屋で高唱した歌を歌い始めた。
 ニシンくるかと イナリに聞けば
 どこのイナリもコンと鳴く チョイ
 ヤサエ エンヤサノ ドッコイショ
 ア ドッコイショ ドッコイショ

 そして彼は、朦朧とした視野の中に、思いがけぬものを見る。
 お上品で理知的な、女子大出の新妻、ブランデーをいくら飲んでも酔わなかった彼女が、日本酒のコップ酒に頬を赤く染め、目をつぶって箸で茶碗をたたき、彼のソーラン節に合唱しているのだ。
 突然、彼女は高らかに笑い、彼の肩をたたいて立ち上がると、一人で歌いながら踊りだした。
 あたしゃ マムロ川の 梅の花 コリャ
 あなた また この町のウグイスよ
 花の咲くのを 待ちかねて
 蕾の頃から 通い出す、トコトン…

 翌日、二人は空になった一升瓶を前にして、ひどく照れくさげな、しかし、なんとなく安心したみたいな微笑を頬に浮かべ、おたがいの顔を眺めあった。
 壁のジャケットはそのままだが、そのとき二人は、二人の仲が、もはやモダン・ジャズや高級な洋酒とは無関係な、二人だけのもっと別な何かで支えられてしまっているのを初めてそれぞれに確認したのだった。』

 ── という話。
 ストーリーを紹介しようと思ったら、ほとんど引用することになってしまった。
 しかし、これを最初に読んだ時、ぼくはひとりで爆笑した。殊に、夫の肩をポンと叩き、喜色満面で立ち上がり、ひとりで踊り出す新妻の姿が目に見えるようで、何度読んでも何とも楽しい、しあわせな気分にさせられる。
 恋人から、夫婦になった瞬間。きっと、既婚者なら、誰でもあるような経験の瞬間だと思われる。
 そして翌日の、二人の気まずいような、でも、ああもうガンバラなくていいんだ、といったような心にスキマ風が吹く感じ。いわば二人の、新しい関係と生活の始まりの朝。
 何回でも読んでしまう。文を書く、勉強にもなる。

 曽野綾子さんは山川さんに見い出された作家で、「あなたがいなかったら私は作家になっていなかったでしょう」と追悼文に書かれている。
 そして「あなたは何も信じていらっしゃらない方でした。何がそうさせたのか、その理由は分かりません。とにかく、あなたの文学は『懐疑』という土壌の上に成り立ったものだと思うのです…」と続いている。
 早熟の人には、大器晩成型が多いという。「生きていれば、老年、見事な作家になられたでしょう」とも書かれている。

 しかしどうしてぼくはこんなに山川さんが好きなのだろう? 箱に入った全集を見るたびに、山川さんがそこに「いる」、そこに生きている気がしてならない。
 そしてきまって、せつなく、かなしくなる。
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