第79話 未来へ帰る

文字数 1,701文字

 それにしても、少年期に兄の本棚に見た「世界の名著」、そのモンテーニュ、キルケゴール、老子荘子が、これほどその後の人生に影響を与えうるものになるとは!
 兄を軽蔑していたら、その本棚にあった書物も、同じように侮蔑していたかもしれない。だが、幼少時代から、兄は自分に唯一の味方であった。独りで心細かった少年に、その心許ない心地を、肥沃な土壌として自ずから、開拓または養分を得ようとした働きが、大好きな兄をとおして起きていた、という見方ができる。
 また、自己というものの未来を、予見していた面もある。それは当時の引きこもった生活に根ざすものであるとしても、この自己は変わらない、根本的に変わらない、というふうに。

「世界の名著」では、巻頭の方にその著者の肖像画や、多くの時間を過ごした町(ニーチェの場合は「ツァラトゥストラ」のインスピレーションを受けたという海へせり出す断崖の写真)などの風景が見られる。
「モンテーニュ」を開くと、真青の空の下に「モンテーニュの塔」と題された写真があった。「法官生活から引退した彼は、邸宅の一隅にあるこの塔にこもり、その後約20年、読書、思索、『エセー』の執筆の日々を送る」という短い付記とともに。
 20年も、彼は引きこもっていた!
 その時、ぼんやりではあるが、だから確然とした手ごたえ(ぼんやりは、ある一点を見つめてそこに凝固した場合にもあるのだから)、自分もそのようになりたいという憧れ、のようなものを感得せざるをえなかった。
「エセー」の内容なんかより、あの短い付記に、打たれた。というより、入ってきた。この身にくまなく、芯に沿うように。

 キルケゴールは、一体何に惹かれたのか解らない。しかし魅力、人が人に魅了されるというのは、えてしてそういうものだろう。とにかく強い引力があり、磁石が抵抗できず、くっつき、離れられないようなものを感じた。運命的な出逢い、というのは、他物(自己以外の物・人)を介して、結局自分自身と出逢うことではないだろうか?
 もちろんそれは自己とは違う。だが歩幅が、歩く調子が、目線のやり場が、捉えるものが似ていた。それは多様な内面運動で、その一つ一つをキルケゴールは吟味詳細に述べているようだった。
「自分と似ていると思われる人間」に対して、人は過度に期待を持つ。その自己が、一般と少し異なっている自覚を持つ者は、希少的な価値を相手に分配しようとする。
 すると、失望・絶望が待っている。自己から逃げたい人間は、ウラギラレタ、とまで極言し、自分のまいた種をバケツごと相手にほっぽりだす。だがその人にしても、自己から逃れられるわけがないのだ。
 一身に、百ほどの眼を持った人間は、一つの事象に対して百の意見を持つ。その意見は、その身一つから出たものであるには変わらない。確かにそれはそうなのだ。だからといって、九十九の意見がその身から失くなるものではない。表層の皮面の下で、脈々と、まさに個々としてありながら、水脈となって、細い細い糸のように断裂することなく繋がっているのだ。
 その九十九の繋がり、水脈をキルケゴールは辿っているかのようである。多彩に色づく葉、一葉一葉を照らし、透かし、葉脈の鼓動を自己省察の動機としているかのようである。

 そして荘子。老子には興味があったが、その後を引き継いだような荘子が、これほど大きな存在になろうとは!
 おそらく、さいごに行き着くところ。荘子の域は、人間であったところのものが、人間でありながら人間でなくなる、生命の昇華といえば聞こえが良いが、単なる自然、元いたところへ帰って行くという、「いったん出ましたが、戻ります」という、凄まじくおとなしい恬淡の極致へ、しかも自然に行くことにある。
 究極、人間の生と死、そのあいだの束の間の生命、このようなものであると思わずとも知れずとも、荘子は究極の人間のすがたを説いた。
 荘子を読んだ時の感激は、忘れることがないだろう。懐かしい友、自分の言いたかったことを代弁してくれたような、幼いより前、うまれた時から知っていた、懐かしい、懐かしすぎる朋友と、やっと出逢えたようなあの感激を!
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