第167話 ネットによる誹謗中傷

文字数 1,691文字

 ヤフーニュースのコメントが、携帯電話番号を登録しないと書き込めなくなったとか。
 そういうコメントとは無縁だし、LINEもTwitterからも脱落しているので、特にどうということもないが、人を傷つける言葉を送りつける、送りつけられる環境がある。
 スマホはほとんどの人、子どもまでが持っているのが当たり前らしいから、常にその危険にさらされているといっていいだろう。
 ぼくの一人娘も、中学の頃か、スマホを通じて大変な目に遭っていたらしい。よくぞ乗り越えてくれたと思う。
 自分も高校時代、イジメというか、クラスの中で孤立する状況になったことがあるが、それは学校を離れれば済むことだった。ところが今は、その場を離れても、携帯電話を持っている限り、またその「友達」との繋がりがある限り、家にいてもひとりでいても「攻撃」を受けることになる。
 相手(たいていは複数だろう)も、ひとりで部屋にいながら、その対象の人間に攻撃を加えられる。ひどい目に遭う場所から離れても、その場所、学校や会社といった、自分が所属している「社会」と完全に関係を切らない限り、逃げようがない。

 スマホを持たなければいい、というもんだいでもなさそうだ。どういうわけか、この小さな機械は、生活の必需品と化しているらしいからだ。
 自分にとってのネットは、ここに何か投稿文を書くか、ニュースを見るかYouTubeを見るかに限られ、それ以上のものではない。ガラケーは持っているが、メールと電話以外に何の活躍もしていない。だから何だというわけでもない。
 朝起きて、聞いていたラジオが、「誹謗中傷する人には、自分が正しいことをしているという意識がある。それが人を傷つけることになるということに、気づかない」というようなことを言っていた。お前は間違っている=自分は正義だ=攻撃して何が悪い、の出来上がりである。
 クラスや職場のイジメも、似たような心理が働いているように思える。どこか「浮いた人」、「こいつはイジメてもいいだろう」と、まわりから暗黙の同意を得られるような人を対象とし、またまわりの数人がそれに同調し、複数で個人を追い詰めていく。

 この「いいだろう」と「同調」の背後には、暗黙の了解がある。了解させるものは、暗黙であって、特に理由もないのだ。
 ぼくに言えるのは、そのイジメる側が、こんな言葉で申し訳ないが、けっして幸せな人でないということだ。不本意にその場所にいて、不満を抱えている。その捌け口の対象を探している。
 作家の下田治美さんが、「どうして人を自殺に追い込むまで、どうしてそんな荒んだ心をもってしまったの」と、被害者はむろんのこと、加害者への憐み、加害者がそうなるまでの過程、なぜそうなってしまったのか、のところに重きをおく文章を書かれていた。
 その通りだと思う。いじめる方が悪いとか、いじめられる方が悪いとか、そんなもんだいではないのだ。
 人としての「徳」をいい出したら、きりがない。しょせん人間は、野蛮な生き物なのか。嘆いたって仕方ない。
 言葉も、ネットも、便利なものだ。W杯も、全試合が無料で見れる。お金も、人間が発明した便利なものだ。それを悪用するものがいて、されるものがいて、人間や環境が「犠牲」になってしまう。そうするのも、されるのも、自己次第であることには変わらない。

 Twitterを買収した人は、「ここを自由な発信の場にしたい」みたいなことを言っているそうだが、その自由とは何なのだろう。利用者が増えれば、自分が万々歳、そうなりたいだけではないのか。
 自分のことしか考えないのはいい。自己の中でしか、考えることはできないからだ。
 だからって、自分のこと

しか考えないでいいわけがない。アナタがいなければ、ワタシだっていないのだ。思い上がった人間は、自分の力でノシ上がったとでも思っているのだろうか。誹謗中傷をする人は、自分が世界の代弁者だとでも思っているのだろうか。
 今日は雨だが、ネットを閉じて、外を歩こう。
 眼の具合もよくなってきたし、キルケゴールも読めるかもしれない。これだけで、十分自由だ。
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