第140話
文字数 1,553文字
これはまだ理解していないし、消化していない事だから、このまま書いていいものか、と思える。でも、そのまま書いてみよう。
だいぶ前に、「プーチンはほんとに悪いんでしょうか」という言葉を聞いたのだった。
ぼくはその言葉にすぐフタをして、見ないふりをした。それを認めてしまっては、その言葉をいった彼を「攻撃」することになりそうだったし、そうなりそうな自分がイヤだったからだ。
あれからだいぶ時間が経って、少し、やっとそのフタを半分くらい、開けられるようになったと思う。もちろん、ひとりの時間に。
今朝も、ラジオのニュースの時間に、「ロシアのプーチン大統領は…」から始まる声を聞いた。
すると、自動的に、げんなりした。同時に、このげんなりする自分は何か、ということに思い当たり、あの「ほんとに悪いんでしょうか」という言葉が、頭をよぎった。
悪い事をする=悪い人である、には、なるまい。どうしようもない、常軌を逸した人非人のような人間が、すばらしい小説を書いたりすることがあるらしいように。
戦争家と小説家を同じするな、というわけにはいかない。その前に、何かを愛したり何かを憎んだりする心情をもった、人間であるだろうからだ。
人格とか性格というものは、対するものによって、目に見えて初めて現れるものだろう。その対するものがなければ、特に愛でることも憎しむこともない。その「自己」が手を伸ばす対象がなければ、無に等しく、だから愛すべきもの、憎しむべきものを
今朝、ぼくはいつものニュースを聞き、自動的に、かの大統領を「憎んでいる」ような、不快を感じる自己を感じた。それも、まったく
もう、このニュースに慣れてしまったから、こんな自己を意識できるのかもしれない。
原子力の日、というのがあることを知ったのもつい先日で、「日本が国際連合の専門機関、『国際原子力機関』に参加した、云々」というのをニュースで知った。
その時、「国際連盟」みたいな言葉を聞いて、「それに加盟しない国は、あまり良く見られなかっただろうな」と思った。と、次の瞬間、その当時の「国際連合」が、ぼくの頭の中で、「北大西洋条約機構」とリンクしたのだった。
まるで、NATOというのは、よく分からないが「イイことをしている」ように思えた。
それに加盟しようとしたウクライナを、させたくないとした、というのも、今起きている戦争のきっかけ、と聞いたことがある。
しかし、ほんとうのことは、わからない。
もし、このNATOというのが、かつての「国際原子力機関」のように、当時は「科学万歳」(当時から「危ない、危険だ」という反対の声も強くあったらしい)みたいな風潮で、それでヨシとするような流れであったとしても、フタを開けてみれば原発から出る「ゴミ」に手が負えなくなる始末、人間の手で処理できないものを、何基もつくってしまったことになる。
と考えると、… 戦争は悪である、殺人は極悪である、というのは自明の理、大前提として、感情に流されず、「はたして、かの大統領はほんとに悪いんでしょうか」(くり返し、戦争はダメとまたここでいいたいが)という、あの素朴すぎるような言葉が、初めて具体的にぼくに想起されたのだった。
つくづく、情報というのは、よく分からない。世を動かすような、財力やら権力やらを持った者にとっては、情報操作なんて容易いものだろう。
そんなニュースを、ネットやらテレビやら、ラジオやらで、見聞きしない日はない。
信じられるものなど、なさそうにも思える。
そうして、ぼくの場合、キルケゴールのいう「関係」に還っていく。
自己以外のモノとの関係、他との関係は、それと関係する自己と自己との関係である、というところに。
だいぶ前に、「プーチンはほんとに悪いんでしょうか」という言葉を聞いたのだった。
ぼくはその言葉にすぐフタをして、見ないふりをした。それを認めてしまっては、その言葉をいった彼を「攻撃」することになりそうだったし、そうなりそうな自分がイヤだったからだ。
あれからだいぶ時間が経って、少し、やっとそのフタを半分くらい、開けられるようになったと思う。もちろん、ひとりの時間に。
今朝も、ラジオのニュースの時間に、「ロシアのプーチン大統領は…」から始まる声を聞いた。
すると、自動的に、げんなりした。同時に、このげんなりする自分は何か、ということに思い当たり、あの「ほんとに悪いんでしょうか」という言葉が、頭をよぎった。
悪い事をする=悪い人である、には、なるまい。どうしようもない、常軌を逸した人非人のような人間が、すばらしい小説を書いたりすることがあるらしいように。
戦争家と小説家を同じするな、というわけにはいかない。その前に、何かを愛したり何かを憎んだりする心情をもった、人間であるだろうからだ。
人格とか性格というものは、対するものによって、目に見えて初めて現れるものだろう。その対するものがなければ、特に愛でることも憎しむこともない。その「自己」が手を伸ばす対象がなければ、無に等しく、だから愛すべきもの、憎しむべきものを
探す
のだ、といえる。今朝、ぼくはいつものニュースを聞き、自動的に、かの大統領を「憎んでいる」ような、不快を感じる自己を感じた。それも、まったく
自動的に
だったのだ。もう、このニュースに慣れてしまったから、こんな自己を意識できるのかもしれない。
原子力の日、というのがあることを知ったのもつい先日で、「日本が国際連合の専門機関、『国際原子力機関』に参加した、云々」というのをニュースで知った。
その時、「国際連盟」みたいな言葉を聞いて、「それに加盟しない国は、あまり良く見られなかっただろうな」と思った。と、次の瞬間、その当時の「国際連合」が、ぼくの頭の中で、「北大西洋条約機構」とリンクしたのだった。
まるで、NATOというのは、よく分からないが「イイことをしている」ように思えた。
それに加盟しようとしたウクライナを、させたくないとした、というのも、今起きている戦争のきっかけ、と聞いたことがある。
しかし、ほんとうのことは、わからない。
もし、このNATOというのが、かつての「国際原子力機関」のように、当時は「科学万歳」(当時から「危ない、危険だ」という反対の声も強くあったらしい)みたいな風潮で、それでヨシとするような流れであったとしても、フタを開けてみれば原発から出る「ゴミ」に手が負えなくなる始末、人間の手で処理できないものを、何基もつくってしまったことになる。
と考えると、… 戦争は悪である、殺人は極悪である、というのは自明の理、大前提として、感情に流されず、「はたして、かの大統領はほんとに悪いんでしょうか」(くり返し、戦争はダメとまたここでいいたいが)という、あの素朴すぎるような言葉が、初めて具体的にぼくに想起されたのだった。
つくづく、情報というのは、よく分からない。世を動かすような、財力やら権力やらを持った者にとっては、情報操作なんて容易いものだろう。
そんなニュースを、ネットやらテレビやら、ラジオやらで、見聞きしない日はない。
信じられるものなど、なさそうにも思える。
そうして、ぼくの場合、キルケゴールのいう「関係」に還っていく。
自己以外のモノとの関係、他との関係は、それと関係する自己と自己との関係である、というところに。