第148話 後悔について

文字数 1,984文字

 過去に、「こうすればよかった」と思うこと。それが心にずっと、悔いとして残る。
 この悔いの正体を探していきたい。
 まず、「こうすべきだった」という「べき」が、相当な原動力になっている。
 この「べき」なくして、後悔は成り立たない。
 だが、そうしているその時は、そのべきを感じながらも、そうしない。感じていても、それを追いやる、強い力が働く。
 その力は、きのう書いた食堂での場合、自分の内なる力で、もうこの仕事を辞めたいという消極的な気持ち、そして辞めたあと希望がないという想像、どうしてこんな自分なのかという情けなさ、この「三種の心機」が、手を振り返さない自分をつくった力であった。
 自分のことで手一杯。余裕のなさ。それまで外に向かっていた、「気配り」とも称される「気」、いつも笑って応対し、円満な人間関係をしてきたような自分の原動力の気が、自己の内へ内へと向かい、閉塞をはじめていた。

 そうして、相手から見て、「自己は今までの自己でない」という自意識、今までの相手との関係から「外れてしまった」こと。それまでの関係が良好であったからこそ、そこから外れてしまった自分、手を振り返さなかった自分への悔い、悔しさが、毎朝、いまも残存記憶として想起されるのだと思う。
 でも、昨日このことを書いたら、今朝はそんなこと想い出さなかった! このことを書いたことによって、胸の内に沼みたいにあった混濁、淀んで濁った、中の見えない暗い水が、浄化されたみたいに。文という形に収められ、出口が見つかり、もやもやしていた鬱屈が、一つ、済んだ。そんな感がある。

 自分のことを、ありのままに書くことは、恥ずかしい。イイ自分、だけでなく、悪い自分、悪いことをした悔い、この悔いの発祥地を書くのは、しかしほんとに自己セラピーのような作用があると思う。
 よく、何か書くにあたって「ネタ」とかいうが、自分の中に「形にされたがっているもの」が、沢山埋まっているような気がする。無形のもの(いのちもそうだが)、それは、形にされることを望んでいるのではないか。もやもやが、一つ一つ、形にされて、成仏(成仏!)するのではないか、と思う。

 他にも一つ、こうすればよかった、との悔恨が、よく顔を出すことがある。そのことについては、今はそんなに形にされたがっていないようだ。出してくれ、といって来るまで、そっとしておこう。

 ところで、人生、とかいうものの転機、その決定的な時に、「こうしておけばよかった」と悔いるようなことは、ほとんどない。たぶんそれは、自分の生であるからだ。他人の生との関係、その関係から、「こうしておけば…」と悔いることが多い。多いどころか、そればかりだ。
 他者にとって、この自己が、その時、おかしなことをしてしまった、と考える・思い出す時、強烈な悔いとなって、自分を苦しめに来る。そしてその都度、ああ、死にてえなぁ、と、自分がいやになって独り言ちる。
 この時、二つ三つの、心理過程が考えられる。
 すでに、その過去は死んでいるのだということ。その死に対し、自己が同化する── その過去の中に、今ある自分の生を、埋め込もうとする行為。そうして、ずぶずぶ「悔い」の中に沈み、窒息してしまいそうになること。
 また、なぜそうしなかったのか、という、「べき」に従わなかった、対外的な「べき」でなく、自己の内の勢い、流れによる「べき」に従った、そうさせた自己とは何だったのか、という疑念。自己に対する、疑い。
 その自己は、今の自分でもあるのだから、この自分を信じていいのか、この自分しかいないのに、「信じられない」「信じたくない!」という自己否定の感情。
 すでに過去というのは、死と同じく、もうどうにもならない。それについて、うじうじと、考えてしまう自分への嫌悪…。こんな自分と、これからもつきあっていく、生きていくのだと、先を思うことから来る、絶望。
 そんな心の働き(立派に働いているではないか)が、あの朝の布団の中に生じていたのだと思う。

 いつか本屋で、「絶望の名人・カフカの言葉」といったような本を見つけたが、絶望は、過去と未来に挟まれて、「今」がどんどん、圧せられている時に起こる、心理作用だと思う。
 そしてその心の働きは、肉体をさえ、凌駕、征服してしまうほど、強固な塊となって、まるでこの自己を苦しめる。
 でも、それは一つの、ありがたい、実は素敵な、何ものにも代え難いエネルギーなのだと思う。だって、そのパワー、自分を苦しめる、自分から苦しんでいる、ともいえるその力は、この自己にしかない、力ではないか…。
 それは、生きることの、源泉のように思う。
 後悔、ヨシ! 左右、ヨシ!と指さし確認して、この人生とか呼ばれる短い横断歩道、渡っていけば、いいんじゃないか。そんなふうに思う、今日の朝の、いっとき。
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