第169話 「個」と「集」を思う

文字数 3,279文字

 W杯、たけなわである。
 汚い力が働いているとはいえ、… 全く、オリンピックのバッハ会長みたいな存在やら金銭の授受によって開催国が決まり、今回の試合会場をつくるのに外国人労働者が多く亡くなっているという、こう書いてしまうと、もう何も言えなくなる。
 問題であることは問題だ。繰り返さないことを祈りたい。
 そして、困ったと思いつつも書いてしまえば、Abmaとかいうネット番組でその放送を見てしまう。その日の試合のハイライト・シーンなどをだ。
 そうしてさらに困ってしまうのは、その試合が面白いということだ。
 アフリカ勢のチームと、ヨーロッパ勢の代表チームの試合が、特に面白い。欧州は(たまたま見たのはセルビアだったが)緻密なパスワークを駆使して、合理的で戦術的な「球蹴り」をする。だが、アフリカは特にチームワークを重視しているとは思えないような試合運びをする。個人技によって、局面をつくっていく。考え抜いたサッカーを嘲笑うかのように、ほとんど本能のままに球を蹴り、ゴールまで持って行くのである。

 こういうサッカーは、ほんとに面白いと思う。文化というか国民性というか、文字通りの国の「代表」が、球を蹴り合って、その一個だけの球に多くの素材が集約されているように思えるからである。
 緻密で、計算高い、合理的なサッカーと、その真逆であるようなサッカー。
 この二つが融合したら、完全無欠なパーフェクト・チームが完成するだろう。
 だが、そのようなチームが存在しないのは、人間の「個」と人間の「集」が常に反目し合うものであるからだと思われる。
「個性は協調性と反比例する」とは、ウディ・アレンの映画「カメレオンマン」に出てきたセリフである。映画の中で、アレン扮する主人公はまさにカメレオンの如く、会っている相手に精神のみならず肉体をも「同化」してしまうのだった。太っている相手と話をすれば、太ってしまう。アラビア人と会えば、アラビア語なんか知らないのにアラビア語を話し、コミュニケーションを成立させる。カメレオンマンたる由縁である。
 だが、これは主人公に多大な悩みを与えた。特異体質、特異精神質とでもいうべきこの特殊能力は、彼にとって「自分とは何なのか?」を切実に考えさせる、重大な問題にならざるを得なかったからだ。

 ミア・ファロー扮するカウンセラーが、催眠術をかけて、ほとんど無意識状態になった彼に尋ねる。「どうして相手に合わせようとするの?」
 彼は応える、「その方が安全だから」「そうしておけば、いじめられない」

 だが、その特殊能力は、次第に彼を蝕んでいく。精神と肉体が、大きすぎる代償を彼に払わすのだ。生命の危険を感じたミア・ファローは、彼に、誰もあなたをいじめない、あなたはあなたでありなさい、というようなことを言って、彼を励まし続ける。
 次第に心を開き、最初はカウンセラーに同化していた主人公も本来の「彼自身」に戻っていく。カウンセラーに愛の告白さえするようになる。
 すっかり自信を取り戻した彼は、すっかり「自分はこう思う!」と言えるようになって、意見の対立する相手とケンカさえできるまでになった。この場面は実にユーモラスに描かれ、観る者を「よかったねえ!」と嬉しくさせる。
 最後に主人公は「自分であることが、何より大事だ」とインタビューに答える形で、微笑んで終わる── そのような話だったと記憶する。
 この映画は、実際にあった話のようにつくられていて、うわ、こんな人間がいたんだ、とぼくはしばらく信じ切っていた。

 話が逸れたが、個性と集団、この二つがうまく一つになることは難しい、ということを書きたい文章である。
 思うに、個人技は、個人がするもので、集団の中から抜け出て、一人で何かやって初めて個人技が成立するのだ。サッカーの場合フォワード、攻撃的な選手が特に目立ってしまうから、ましてやゴールキーパーとの一対一の局面にでもなったら、もう個人技で切り抜けるしかない。
 勝負を決める点を取るために、チームがそれに向かう時は、まさに一丸となっている。だが、最後に球を蹴るのは、一人だけの作業なのである。
 その局面に至るまで、丁寧にパスを回すサッカーは美しささえ感じさせる。だが、それをいとも簡単に、単純にポーンと球を遠くへ蹴って、それを受けた一人の人間が個人技によって鮮やかにゴールを決める、そんなアッというまの出来事も面白い。

 思考と、本能。むろんそこには「技」があるが、この対極にあるような二つが、まことに混ざり合った時、真実に強靭な人間集団、サッカーチームが出来上がるように思える。
 そしてそこへ近づく、近づいたチームが、このW杯という舞台での冠が与えられるのだろうと思う。

 さて、集団も個人の集りなのだが、個人は集団になれない。個人は、集団に

ことができるだけで、また同様に、集団は、個人になれない。
 個人と集団は、それ自体一つの構図内に収まりうるが、それは構図内の話であって、厳密には個人と集団はもちろん一体になんかなっていないのだ。
 そして個人が集団に加わる時、加わる前の彼の能力が100であったとしたら、そのまま100ではいられない。10にまで落ちる選手もいるだろう。90は、集団の

に埋められるからだ。(この数字はロールプレイングゲームのHP、MPといったステータスのようなもので、7、80の選手が11人いたら、もう十分に凄い。)

 この文でいいたかったことは、じつにたいしたことでない。その「集」に入る以前の「個」は、はたしてほんとうに100だったのかということだ。
 作家の多くが「作品を書く前の、想像する時が一番楽しい」らしい。その時間、その人のステータスは数字に計れないほどだろう。だが、それは一人でそうなっている状態で、そのまま想像が体現されるわけにはいかない。体現するということは、形に表すということだからだ。想像はあくまで想像の世界で、体現される世界は想像の世界とは別に存在しているからである。
 それは両極のものといっていいだろう。いや、対比、くらべるものでは、そもそもなく、要するに想像する「個」が、その個との延長線上にある「集」という現実に、自分が無限にあると思われたHPやMPがあらわされてしまう、ということだと思う。
 これは、他者の存在によってそうなるのではない。形にするものと、されるものとは、本来離れているものである、個と集は、個は個であり、集は確かに集であるけれども、それはそう見えるだけのものである、ということだと思う。

 そしてその集が、個が100或いは∞に思えていた個という個が、実はほんとうに100乃至∞のものを持っていたとして、それが能力と呼べるものとして、それをどれだけ集の中で可能にしていくか、それを問うのが「集」の集としての能力、といってしまっていいかと思う。能力というと、至上とか至下というものが付いてくるようで、好ましくないけれど。

 その問いは、結局その集の中にいる、個、個、個、如何による、個自身に向かい、それが相互、相

、相

、相

に向かれ、RPGのような数字に表れない

になればと思うのだが。
 この力という表現も、まるであった方が良いものであるかのようで、あまり好ましくないのだけれど。そして「良い」というのも… 最強のチーム、といったところで、「強い」というのも… と、ひとりドツボにハマッていく。ひとり、個と集である。そして、もしかして、みんなそんなものなんじゃないか、と思ってみたりもする。(みんな?)
 それでも言おう、個々の能力を、集団の中で、十分・十二分に、発揮できるような世界、集団が個々を

、生かしていく世界、それがこの世界の理想郷、人間の創造する世界の理想郷だ、と。
 たとえ何も為していなくても、ここに生存しているだけで、この世界に必要な存在である、と…。この世界に「参加」しているだけで、いるだけで、微妙に繋がり合っているワン・チームなのだと、恥ずかしさを堪えて言ってしまおう。
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