第312話 書くことに何を遠慮するのか

文字数 1,445文字

 たとえばブログをしていて、「にほんブログ村」や「人気ランキング」などの媒介に所属せず、「このような描写はしないで下さい(過激な性的描写・暴力・残酷なもの)」という制限を受けていないにも関わらず、そういった内容のものを自分は書けない。
 性的なものは恥ずかしく感じるし、暴力的なものは書きたくない。残酷な描写も、書く気にならない。読んでいてさえ、げんなりするからだ。「この人が書くなら」と、著者との一方的な信頼関係ができているのなら、読む。が、自分から進んでそんな内容のことは書けない。

 自殺のことを書くのも勇気が要る。誰かに殺意を抱いた体験も同様である。こんなことを書いたら、読み手はどう思うだろう、という想像が働く。自分がよく見られたい、「いいことを書きたい、いいカッコしたい」下心も働く。他者を意識する。
 書いている時、自分以外の誰もおらず、私ひとりに向き合っているはずなのに、他者を意識し、自己制限をほとんど本能的にかけている。何を書こうが自由であるはずなのに。どう受け止められようが、読み手の自由であるはずなのに。私の中の何が、そんな制限をかけてくるのか。

 何万人かの自殺者を生むこの国で。自殺のことを書くのは、大切なことだ。
「それは個人の心の問題。ネットでは、そんなこと書いても読まれない、流行らないよ」とでもいうのだろうか。自分の中から、そんな声がするのだろうか。流行にはすぐ流されるくせに、肝心なことには目を伏せる。
 確かに、こんなことを書いても何にもならないと思えることはある。が、「何かになる」ために書いているわけでも読んでいるわけでもない。娯楽なら、読み書き以外にも沢山ある。書物に、一般でいう娯楽的なものを求めたくない。

 ハイよく書けました、と合格点を与えられるように書きたくない。ああ今はこのような本が売れ、読まれているのかと、受験の参考書でも読むような仕方で読みたくもない。
 迎合しようとする対象、その対象に迎合したい自分のために、自分自身を失いたくない。どこに、どの足がそこに立っているのかをよく、よく見つめなければ、見えるもの・見たいものといえば「数」及び「他者から評価される自己」だけになる。これを自己喪失といわず、何というか。

 きのう柳美里を読み終え、やはり自分と似ているなぁと思った。今、久しぶりにまた、いわゆる哲学書の再読を始めた。
 先日、兄から「ミツル氏(私のこと)は深い関係の友達が沢山いて、羨ましい」みたいなことを言われた。だが、私は、兄の生き方をつくる哲学、沢山の本を読み、ひとりで学んだことを自分のものにし、それを人生の足にして歩んでいる兄を凄いと思っている。そのことを言ったが、ピンと来ないようだった。

 自己というものは、その自己を抱えるのが自分であるにも関わらず、よく分からない。私は友達がいないと思っているし(過去にはいた、しかし今はほんとにいない)、兄は哲学が自分をつくったと思っていない。
 他者からみて、また自分からみて、自己というのは一体何通りあることになるだろう。

 友達、恋人、まわりの人との関係は、いつか終わる。離別があり、死があるからだ。でも自分自身との自分の関係は、自己と離別するまで、ひとり、死ぬまで続く。
 せめて、ひとりで書く時間、読む時間は、まして移ろい易すぎる流行、情報、また他者の目のようなものに端を発する自意識に捉われず、いたいものだと思う。それでも、まるで自由に書けず、自制、自縄自縛している始末なのだから。
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