第65話 小説と哲学

文字数 1,682文字

 モーパッサンを繰り返し読みながら、ずっと気になっている「存在と時間」(ハイデガー)を読もうと試みた。
 だがだが、一ページ目を開き、文字を追おうとした時… まるで世界が違った! モーパッサンの小説に耽溺したせいか、この思想、頭の中を開示するだけのような文章に、ひどい異和感が目の前に表れ、まったく読めなかった。で、またモーパッサンに戻った。
 なんでハイデガー、苦手なんだろう。キルケゴールと同じ路線であるはずなのに。
 そのキルケゴールにしても、正しい読み方はキリスト教を学び、カントを学び、ヘーゲルを学びした後で読むのが正しい、と言えるだろう。
 だが「漁師には、漁師の息子しかなれない」と感じる人があるように、キリスト教圏で幼児期から暮らし、生活の、空気の一部のようにキリスト教とともに生きてきた人と、学ぼうとして学ぼうとする僕とでは、足の着き具合が違うように思われる。それでも、なぜキルケゴールに惹かれるのか、僕は永遠に解らないだろう。だからいわば、ずっと恋しているような状態であるだろう。

 しかし同じ日本語、同じ言語で書かれた文章なのに、小説と哲学とでは、こんなに違うものなのか。
 これに、初めて愕然とした。
 思うに、頭の持って行き方が違う。景色が違う。「異文化」といっていいかもしれないほどの、違う印象をうけてしまった。それはこちらの読む体勢ゆえだろうと思うが、こちらも同じ頭を持っているはずで、何もそんなに別世界に感じなくてもよかったはずなのだが…。
 関心。いまはモーパッサンのペシミズムがしっくり来ていて、哲学的な文は受けつけないカラダになっているのだろうか。関心、興味が、モーパッサンに乗っ取られてしまったのかもしれない。
 思えば、ずっと自分、厭世的だった。世界観みたいなもので言ったら、「この世」というものに、あまり希望を持ったことがない。希望的観測ができたのは、好きな女の子とうまくいった時とか、自分でも何かしっかりやれるな、と手ごたえを感じた時だけで、自分のまわりの世界そのものへ希望を抱いたわけではない。
 そのまわりの世界、まわりの状況、まわりにいる人を経て、そこから自分自身に希望を見い出した時、初めて希望をもったように思えただけだった。

 希望とは、与えられるものではない。自分でつくるもの、という意味では、たぶん間違った希望の持ち方ではなかっただろう。
 きっと幸せも、その意味ではそうなのだ。与えられるものではない。してもらうものでもない。何かを介し、そこから自分で得るものだ。
 そして希望も幸せも、時間の手中にある。時間は、それを時間とする人間がいるかぎり、永遠に流れるけれど、その人間の一人にとっては死ぬまでの時間なのだ。したがって、一人の人間としてみれば、窮極のところ、希望や幸せといった「満ちた時間」はいずれ終わるのだ。──と、こう考えるところが、ペシミズムのペシミズムたるゆえんで、しかも事実を言っているつもりでいるのだ。
 時間は、ただ流れるだけ。それを、満ちたの、引いたの、人間の自己自身の変化によってそう感じるにすぎないのだ。

 ところで、ほんとに時間とは何なのだろう?
「希望に満ちた時間」は、今には無いだろう。希望は、あくまで未来のことだからだ。
「幸せな時間」は確かに存在するだろう、自己自身が幸せ、と感じ得る時間の中にある以上は。
 だが、その幸せな時間も、はたして「今」なのだろうか。ほんとうに、今なのだろうか。
 幸/不幸は、双子のカップルだから、不幸な時間を考えてみよう。不幸は、あきらかに「今」ではない。
 将来への不安、未来への不安なくして、不幸は成り立たないからだ。
 すると、幸せな時間とは?
 … 何も考えない時間であるのかもしれない。
 だが、そんなことはあり得ないのだ。
 寝ていても、夢をみる。でも、寝てしまえば何も考えないでいられる、と思って寝るから、なんだか寝ている時は幸せみたいな気がするのだ。
 で、もう寝ようと思う。少なくとも、「考える」、主体的なスイッチは、OFFになる。
 だが主体とは…
 おやすみなさい。
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