第171話 彼と彼のこと

文字数 1,928文字

 摩訶不思議なのは、全くもってこの心、と彼はいう。
 夜、何だかんだと思い巡らせ、ああもう死にたいなァとか独り言ちても、朝になれば起きて来た家人に「おはよー!」とか言って、味噌汁をつくったりご飯を炊いたりしているのだ。
「人生は苦しみである、ってインドの偉いお坊さんはいったけど、全くそうだと思うよ」
 彼はいう。
「だったら、いっそ死んだ方がいいって思うよ。明けない夜はないにしても、朝が来ればまた夜が来るのだから。死んでしまえば、もうこの繰り返しもなくなる。だったら、いっそ、と思う。でもぼくの場合、今死なないことを知っているから、そんなことも望めているのさ。いざその最期の時が来たら、死にたいなんて望まない。

 今、ここにないものを求めるのが人間だとしたら、死は常時求められるものだね。実現したら消えてしまうのも、望みと似ている。ただこの望みの困るところは、実現したらもう絶望することもできなくなることで…。
 死にたいと生きたいは合わせ鏡だ。でも、死ぬということは怖い。生きるということには、死ぬに比べれば、そんな怖さはない。死ぬって、どうにもならぬほど怖いことだ。
 身体は、きっと生きたがっている。でもいずれ死ぬことを考えるから、身体もガッカリしちゃうのかもしれない。
 ぼくの場合、まだ何か未練があるのだろうかと思う。この期に及んで、まだ何か、し忘れたことがあるんだろうかと思う。刹那的に生きて来たから、特にやり残したこともないはずだ。これだけは、という、どうしてもやっておきたいことも、ないように思える。長生きしたいと思うより、早く死にてえなぁと思うことの方が多かった」

「小さなことへの後悔なら幾らでもあるが、絶対的な後悔はしていない。モーツァルトは『死は友達だ』といった。突き抜けた人だよ。死と、お友達になる。怖い物なしだ。世紀の大楽聖も、苦しかったんだろうな。
 戦中戦後のデカダン作家は、『生まれたことを不幸と思え』といった。もうちょっと、言い方があるだろうに、でも極言師のような人だったから、苦笑して許せる気もする。
 しかし死、いつ、この最後の来訪者がいらっしゃるのか見当もつかない。いつか来ることだけは分かっている。
 せっかくいらっしゃるのだから、上がって頂いて、白湯(さゆ)でも飲みながら世間話でもできたらいいのだが」

 ── 大変ですね。今日もお忙しいのですか。
 まぁ、仕事ですからね。われわれも、生まれる方へ行く担当と、亡くなる方へ行く担当があるんです。因果な商売ですよ。わたしの行くのは、亡くなる方で、人はあまり笑ってくれませんね。しかつめらしく、みんな黒服を着て、まるで笑っちゃイケナイような雰囲気です。こっちも、好きでうかがっているわけでないんですけど。
 まぁ、生まれてくる方も、どうして生まれたのか分からず泣いているわけですが、あっちの方では、人は嬉しそうに笑っていますです。なんなんでしょうね。あっちの担当に、わたしもなりたかったですよ。やっぱり、笑ってくれた方がいい。笑いは、いい。
 もう苦しまなくて済むね、って笑ってくれる人は稀有ですよ。

 見送られる方も、みんなが笑ってくれたら、笑って旅立てるんじゃないかしら。めそめそ泣かれたら、後ろ髪引かれて、行きづらくなりますよ。
 しかし、笑えない状況はありますね。戦争なんか、笑えたもんじゃありません。自然じゃないからですね。誰も、戦場なんか行きたくありませんや。無理があるんですよ、殺し合うなんてことには。
 だからあなたも、自分の中で殺し合うのは、やめた方がよござんす。身体が生きたがっているのなら、それに従って、それを止めないことですよ。
 きっといい方向へ向かって行きますよ。たとえ今がどんなにつらくったって。そのために、今があるんですよ。どんなに苦しくたって、糧になります── 生きてるかぎりは」

 ああ、その未来が見えなくなることが、死であるのか。だから、ぼくは死を怖がるのか。人は死を厭うのか。
 人の死を悲しく思うのは、その一人の死から、一つの未来が、失われてしまうからか。
 人の死を悲しく、寂しく思うのは、未来をつくる人間、仲間が一人、いなくなってしまうからか。
 ── そうなんですよ、実は。だから死にたくないと思うのは、自分のためでも人のためでもあるんです。人間であるということから、人との間にあるということから、あなたの「人」という自分も始まっているわけです。
 焦らず、ゆっくり生きて下さい。今なんて、いつも束の間ですよ。夜も朝も、束の間の繰り返しです。自分を苦しめず、人を苦しめず… 少なくとも、そうしてやって下さい。自由な心は、あなただけに、だから人にだけに、あるものですよ……
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