第370話 ナオキマンショー

文字数 1,261文字

 宇宙のことが気になって、youtube先生に聞いてみる。開かれたのがタイトルのページ。20代?30代?の若者がこちらに向かって喋っている。宇宙人、幽霊、陰謀論… いかがわしいと言えばいかがわしい。いろんな映像、解説、大学名誉教授、寺の住職との対談。トークのテンポが良く、面白い。思わずノッてしまった。引っ掛かるものがありながらも。UFOブームだった頃を思い出したりして。
 物質が優先され、精神とのバランスが崩れてしまった世界であること、このナオキマンなる人そのものが以前パニック障害であったこと、ココロよりモノでは限界があること… 早口で、リズムが良すぎるからうっかりすると聞き逃すが、イイこと言ってるし面白い。「ショー」であること、エンタメであることも一種の逃げ道、ガス抜き、一歩引いて見ながら、だからこちらに娯楽的な、自由的なものを感じさせる。

 考えることにげんなりした時、こういうチャンネルは良い逃避先だ。
 考えるというのは、現実に対して何とかしようとする気持ちが働く。この気持ちから真剣に考えることができる。ところが、こういったチャンネルは「想像」が主だ。行きすぎると妄想になる。現実というより、目に見えない世界から想像する=考えていくから、同じ「考える」にしても土台が違う。考えて行くうちに、一緒くたになりそうだが、あくまで最初の一歩が違う。何年か前も、夏にコワイものを見たくなって、このチャンネルにヒットしたっけ。中学の頃、「2時のワイドショー」なんかを見て、心霊写真のコーナーをコワッ!と思いながら友達と見ていたっけ。

 でもその形態は同じなんだよな。テレビがインターネットに代わっただけで。こちらは受動的、あちらは発信側。本や、こんな文章もネットで、著者、作者が「発信」しているが、それを見る(読む)も見ないも受け手の自由。ここまでは同じだが、テレビ的なものはこちらの能動を働かせる余地が極めて少ない。根こそぎ、のめり込んだら持って行かれる。そんな危険が、ぼくの引っ掛かりの正体だ。
 土台、土壌、その土の質が、本や文章と全く違う。一時期、テレビ的なものにはノメリ込む。でもそれは非現実的な、テレビがある、それを見るというのは現実だが、どこか誤魔化しているような、ダマされているような、少なくともバーチャル的な、これでいいのかという気分になる。ゲームをしていた時と同じだ、ファイナルファンタジーで敵をやっつけて能力を上げたところで、その間費やした時間の後に残るむなしさ。

 いくら人生が、時間が、暇つぶしのためにあるものだとしても、こんなつぶし方は意趣に反している。素直に首肯できない。たまにならいいが、こんな受動を繰り返してばかりいては、ほんとうに死んでしまう気がする。肉体は生きているが、そこから離れた脳だけがプラスチック箱に入れられ、ポツンとそこにあるだけのような。冷たい机上に。
 そう、今こんなことを書いていることにしたって。
 年賀状の返事も書いた。曇り空。郵便局に行って、スーパーに行って、歩け歩け。
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