第155話

文字数 1,704文字

 自己回顧録。
 15年前にウェブリブログに書き始め、何年か書かない時もあったようだが、何か書きたいという欲求は、常にあったように思える。
 小説を書きたいと思った。小説でなければ、ダメだと思った。そして書けず、書いたが、見るも無残なもので、本格的にダメだと思った。
 書きたいというのは、自分に残された最後の希望のようなもので、だから始まる希望でもあったのだが、小説を書けないことを知って(これは身に沁みて知ったつもりだ)、何の希望もなくなった… 自分を立たせてきた

に、自分が倒されたという感じだった。
 だがブログという形式、社会に向けて自己発信できる、書きたいことを書けるという、そして読者が得られたという現実に、すっかりハマッてしまった。
 5年くらい続けて、ほんとに毎日、仕事から帰ってきて「書く」時間が楽しく、酒を飲みながら書きたいことを書いた。

 しかし結局、自分の仕掛けたワナに、自分からハマッた、と言える。あくまでも、ぼくの書く動機をつくっていたエネルギーは「社会」、つまりは「他者」という漠然としたものに向かっていた。その自分が、いちばん漠然としていた、と言える。
 そして多くの人に読まれることを望み、好意的なコメントをもらえば喜び、どんどん書きたいこと、それまで「社会」へ向かって言いたかったことが、自己解放されるように湧き出て来た。好きな音楽を聴きながら酒を飲み、憑かれたように書く。この時間が、生活の全体を張り合いのあるものにさせ、仕事にもその勢いを持ち込んで、充実しきった毎日を送れた。

 その充実は、三年位で終わった。あとの二年は、惰性だった。「外へ」でなく「内へ」の傾向はその頃から始まっていたが、それでもまだ外へのこだわりがあった。内へ向かっていても、もっと内へ、もっと内へと入り込めなかった。苦しかったからだ。この苦しさは、入り込めない苦しさでなく、入り込もうとせず、その入り口で、外壁を埋めるように、たとえば椎名麟三の引用を用いて、自分はこれについてこう考えるのだ、と椎名さんの言葉を自分の代用として、そうして自己防御壁をつくっていた。
 自分の考えを、突き詰めて行こうとしていなかった。自信がなかったからだ。誰かから攻撃を受けるのを避けるため、また、受けてもオレには椎名麟三のバックがついているんだぞという、「弱い犬ほどよく吠える」姿にも似ていた。

 あのとき、感じていたのは、むなしさだった。自分の中に、ぽっかり穴があるのが分かる。外堀だけ埋めて、その中に何があるのかといえば、何もない。自分から、中へ進んで行かないのだから、当然だ。ドーナツ状の、クレーターみたいな穴が見えるだけ。敷地内、その大きな(大きく見えたのだ)穴で占められていて、何か建てるどころのさわぎでない。穴だけが、その門から見えた。門を、開けようとも思わなかった。
 楽しんで書く── というより、本当に書く、書き続ける、ほとんど無限に書ける、そんな状態があるとしたら、この穴に入らないとダメだな、と、こないだここに書いていて、思った。実感した。
 あ、けっこう書けるんだな、面白いな、と。
 きっとキルケゴール、これは防御壁でなく穴そのものだが、あの思索家も、こうしてあれだけの膨大な文を書き続けたんだな、と思った。
 しかしこの作業、キルケゴールは本当に楽しんでいた…のかな。教会への攻撃は命がけだったろう。命を賭けて、書いていたのかな。命を賭けれる、大きなものに向かえる、喜びのようなものを、命を賭けながら、喜べていたのかな。
 キルケゴールにとってキリスト教は、真実であったと思う。かれ自身の、真実に向かったのだと思う。
 それ故に、真でない、かれにとって「本当のキリスト教でない」当時のキリスト教会のあり方に、攻撃を加えざるをえなかった。と、ぼくは思う。
 キルケゴールの歩む基盤は、どこまでも彼自身の中にあったのだと思う。彼は、彼自身を信じていたのだと思う。
 オレの基盤は、どこにあるんだろうと思う。穴…。
 勇気が要るな、などと思わず、気軽に入って行けばいい。そこで、楽しく、書き続けていられたら、しめたものだ。
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