第179話 知識

文字数 1,783文字

 とくに学識も知識もなく、何を書いて来たんだろうと思う時がある。
 いくらモンテーニュが「自分のことしか書けないから書く」と云ったところで、もう500年前とは時代が違う。SNSとか何やらで、自己発信なんて誰でもしている。個人情報、住所や名前の情報以外の、個人的な情報開示は、掃いて捨てるほど、掃くまでもなく数秒単位で折り重なって、自然淘汰されていく。
 自分について考えることは、人間について考えること── それはそうだろうが、はたしてそれだけ考えたい人間がいるんだろうか。七面倒臭い、ややこしいことはなるべく避けて通りたい。これが本音なのではないか。
 書いていると、しかし考えることになる。考えないと、文章にならないからだ。なぜ文に、言葉にしたいのか。考えたいからだ。なぜ考えたいのか。考えないと、空虚なままだからだ(この時点で、相当に自由である)、そしてこの自由をそのままに、満喫することができない。呆然と、白痴のように、白紙のまま、何も埋めぬまま、微笑んでいられたらいいのだが。

 すると私は、きっと狂人と呼ばれるであろう。そして狂人に、きっとなれないのだ。何かしないではいられないからだ。
 少し前から、小説めいたことを書き始めた。構想を練ることはない。こういうシチュエーション、情景、人、といったイメージ、これなら書けるな、というもの、結末もイメージだけである。
 試したい、というのがある。子どもを主人公にしたかった。その子は、ぼくが大好きな子だったのだ。乱暴者で、といっても子どもだから、手がつけられないほど非道いヤツなわけではない。ただ、まわりの大人が手を焼く子だった。その子は、ぼくの腹を全力で殴ってきた。でも、ぼくはその子がどうしてか大好きだった。殴った後の笑顔が、天使みたいに可愛かった。ぼくの友達も、よく腹を殴られていた。
 今も、その子を思い出すと、微笑んできて仕方ない。どうしてか、ヨシッ、という気にさせられる。
 そういう子を、二人知っている。一人はハーフの子で、お母さんがアメリカ人でたぶんアメリカにいると思う。もう一人は、少年院に行ったと聞いた。

 あの子どもたちの、何が、自分を惹きつけたのか。もし僕の、彼らを「好き」という気持ちを愛と呼べるとしたら、この愛情のようなものは本物なのか。偽物なのか。これを、試したい(

たいとは思わない。愛とか好意は、確かめられるものではないだろうからだ)。全く、「エセー」(フランス語で「試し」「試み」)のような動機から、書き始めた。
 だが、やはりダメなようである。
「彼」と「子ども」、もちろんそのまわりには人がいて、場所がある。
 彼・子ども・人・場所、ここから起きる諸々のことを書いているうちに、きっと面倒臭くなる、というより、書きたくなくなる。書きたいものは、コレではない。その諸々の描写は、自分の書きたいと思ったことではない。この小説を書きたいと思った動機から、どんどん離れていく。ここの描写に時間をかけて考えることが、ムダな時間、必要でないことのように思えてくる。ここに、時間を要するべきでない、ここに時間をかけるのは本質から離れることになる、ということだけが感じられてくる。

 すると、「第三者」、彼でも子どもでも人でも場所でもない、この彼・子ども・人・場所を見つめる、包容する、大きな大きなものが、その「存在」が、厳然と、確然と感じられてくる。
 ぼくは、その存在がどうしても無視できない。まるでその存在が、この世の存在、ありとある在るものを、統治しているかのようなのだ。
 その「存在」の前に、ぼくはまるで無力になる。その存在に、取り込まれる。どう抗おうが、その絶対的な、でも形にならない、その絶対者、存在していないような絶対者、その前では、何もかもが無理なのだ、という気にさせられる。そしてこの「気」が、いつのまにかその者とすり変わって、絶対のように感じられる。いや絶対というより、「他にない」、他をいくら探しても、その「他」も、この者の手のひらの上にある、というものだ。そしてこの「者」は、存在しないが確かに存在しているものなのだ。それは僕ではない。僕は、ただそれを感じることができるだけだ。

 こんなことを書いても、理解されるかわからない。理解しようのないことを書いているからだ、書いてる本人が。
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