第139話 山
文字数 1,987文字
「山に住むといい」と言われたことがある。
皮肉なニュアンスでなく、それがあなたの幸せになるだろうし、相応しいのではないか。充実した、あなたの人生を愉しめる、あなたにしかできない体験、その体験に生きることができる── そんなニュアンスだった。
人に(個人に)本質というものがあるとしたら、彼は本質を見抜く、感じ取る能力みたいなものに長けた人だったと思う。
だが、彼はその数ヵ月前は、「ああ、あなたは書くことが生業 なんですね」とも言っていたのである。もちろん、仕事とか労働の意味の生業ではない。
彼は占い師でも宗教家でも心療内科医でも何でもない。ただ、思っていることを、言ってくれたのである。
「山にいて、畑とか耕しているイメージがある」と、今一緒に住んでいる人にも、初めて会った時に言われた。やはり、そういう生活の仕方があなたには合っているんじゃないか、というようなニュアンスだった。
だが、彼女と知り合ったきっかけも、やはり「言葉」が媒介、仲人だったのだ。
彼と彼女、ぼくには信頼できるこの二人の、現実生活面の影響は大きい。自分について考えるきっかけを、よく与えてくれる存在だからだ。だが、やはりその存在から出てくる、言葉に依るところが大きい。
で、考えることになる。
そもそも、信頼・信用とは何か、ということを。
「わかってくれる人」とか「理解者」とか。
同じ日本語で、何かを伝え合い、少なくともこちらは何かを伝えようとし、それが「伝わった」と感じる時と、「伝わっていない」と感じる時がある。
相手も、もちろん同様に、そういう感じになる時があるだろう。
理解できるはずの同じ日本語、そのためにあるはずの言語をもってしても、「理解し合えない」と両者が感じ合う、そんな時、どうしてそうなるのだろう?
理解しよう、という心意気だろうか。その意気があれば、わかりあえるだろうか。
そもそも、何を理解したい、理解されたいのだろうか。
理解されれば満足し、理解されなければ不満足になる、ということは、わかる。
価値観が違う。育ってきた環境が違う。アナタとワタシは違う。「違い」をいって、相手を引き離すことは、簡単にできる所作のようにみえる。
だが、その価値観とは何なのかということ、育った家庭そのものでさえ、その家族の構成員一人一人が違っていたわけだし、アナタとワタシどころか、ダレがダレとでも違うのだということ。
「わかりあえない」などという、一言で片づけられない。
が、この一言で片づけようとする。そしてそのことについての思考も止まる。
だが、ほんとうには止めたくない。気になるからだ── こんな経緯を経て、こうして一人でパソコンに向かい、何かよく書くことになる。考えたいからだ。
だが、この考える機会を作ってくれた、その相手本人は、もうこちらのことなど全く気にも留めていない。こちらが、一人で留めているような気になったりする時もある。相手が目の前にいないのだから、当然だ。
「違い」が明らかになると、もう交流ができない、というような関係は何だろう?
「同じ」共感のようなものができないと、交通不能になるような感じは、何なのだろう?
こんなようなところから、苛めとか、疎外とか、あまりよろしくないことが芽を出すような気がする。いきなり「周り」へ目が行くが。
よく、「あんな人だとは思わなかった」と憤慨している人もいるけれど、その「想定外の彼」は、それまでの「想定内の彼」につくられている。その彼をつくったのは、その想定をした本人以外にいないのだ。
だいたい、「理解された」と受動的に思うのも、「理解した」と能動的に思うのも、「自分にとって」の域を越えることができない。
そして「理解された」というのは、自分にとって都合のいい場合に使われることが多い気がする。
自分にとって或るイメージと、相手の言葉によってその自分にもたらされるイメージが、一致をみたような時、その自分は「理解された!」と思うような気がする。
「理解する」というのは、そういう一致点を見い出そうとする気持ちの働きはあっても、とにかく「理解しよう」とする姿勢が、スタート前のクラウチング・スタイルみたいにあるようだ。そして相手に向かい、その人なりに相手を理解する── ひとり作業であることは、「される」も「する」も、同じであると思える。
と考えていくと、山、というのは、象徴的に感じられる。
そこに住む、安住するというより、超えていくためにあるように見え、感じられる。
とりあえず考えることはできている。この理解したい「考え」を頭に持ちながら、わかりあえないというのは、かなしいことに違いない、という心情的な「感じ」を抱きながら、なにやら見える山へ、向かっているようだ。
書くということは、自分にとってそんな行為であるらしい。
皮肉なニュアンスでなく、それがあなたの幸せになるだろうし、相応しいのではないか。充実した、あなたの人生を愉しめる、あなたにしかできない体験、その体験に生きることができる── そんなニュアンスだった。
人に(個人に)本質というものがあるとしたら、彼は本質を見抜く、感じ取る能力みたいなものに長けた人だったと思う。
だが、彼はその数ヵ月前は、「ああ、あなたは書くことが
彼は占い師でも宗教家でも心療内科医でも何でもない。ただ、思っていることを、言ってくれたのである。
「山にいて、畑とか耕しているイメージがある」と、今一緒に住んでいる人にも、初めて会った時に言われた。やはり、そういう生活の仕方があなたには合っているんじゃないか、というようなニュアンスだった。
だが、彼女と知り合ったきっかけも、やはり「言葉」が媒介、仲人だったのだ。
彼と彼女、ぼくには信頼できるこの二人の、現実生活面の影響は大きい。自分について考えるきっかけを、よく与えてくれる存在だからだ。だが、やはりその存在から出てくる、言葉に依るところが大きい。
で、考えることになる。
そもそも、信頼・信用とは何か、ということを。
「わかってくれる人」とか「理解者」とか。
同じ日本語で、何かを伝え合い、少なくともこちらは何かを伝えようとし、それが「伝わった」と感じる時と、「伝わっていない」と感じる時がある。
相手も、もちろん同様に、そういう感じになる時があるだろう。
理解できるはずの同じ日本語、そのためにあるはずの言語をもってしても、「理解し合えない」と両者が感じ合う、そんな時、どうしてそうなるのだろう?
理解しよう、という心意気だろうか。その意気があれば、わかりあえるだろうか。
そもそも、何を理解したい、理解されたいのだろうか。
理解されれば満足し、理解されなければ不満足になる、ということは、わかる。
価値観が違う。育ってきた環境が違う。アナタとワタシは違う。「違い」をいって、相手を引き離すことは、簡単にできる所作のようにみえる。
だが、その価値観とは何なのかということ、育った家庭そのものでさえ、その家族の構成員一人一人が違っていたわけだし、アナタとワタシどころか、ダレがダレとでも違うのだということ。
「わかりあえない」などという、一言で片づけられない。
が、この一言で片づけようとする。そしてそのことについての思考も止まる。
だが、ほんとうには止めたくない。気になるからだ── こんな経緯を経て、こうして一人でパソコンに向かい、何かよく書くことになる。考えたいからだ。
だが、この考える機会を作ってくれた、その相手本人は、もうこちらのことなど全く気にも留めていない。こちらが、一人で留めているような気になったりする時もある。相手が目の前にいないのだから、当然だ。
「違い」が明らかになると、もう交流ができない、というような関係は何だろう?
「同じ」共感のようなものができないと、交通不能になるような感じは、何なのだろう?
こんなようなところから、苛めとか、疎外とか、あまりよろしくないことが芽を出すような気がする。いきなり「周り」へ目が行くが。
よく、「あんな人だとは思わなかった」と憤慨している人もいるけれど、その「想定外の彼」は、それまでの「想定内の彼」につくられている。その彼をつくったのは、その想定をした本人以外にいないのだ。
だいたい、「理解された」と受動的に思うのも、「理解した」と能動的に思うのも、「自分にとって」の域を越えることができない。
そして「理解された」というのは、自分にとって都合のいい場合に使われることが多い気がする。
自分にとって或るイメージと、相手の言葉によってその自分にもたらされるイメージが、一致をみたような時、その自分は「理解された!」と思うような気がする。
「理解する」というのは、そういう一致点を見い出そうとする気持ちの働きはあっても、とにかく「理解しよう」とする姿勢が、スタート前のクラウチング・スタイルみたいにあるようだ。そして相手に向かい、その人なりに相手を理解する── ひとり作業であることは、「される」も「する」も、同じであると思える。
と考えていくと、山、というのは、象徴的に感じられる。
そこに住む、安住するというより、超えていくためにあるように見え、感じられる。
とりあえず考えることはできている。この理解したい「考え」を頭に持ちながら、わかりあえないというのは、かなしいことに違いない、という心情的な「感じ」を抱きながら、なにやら見える山へ、向かっているようだ。
書くということは、自分にとってそんな行為であるらしい。