第125話

文字数 893文字

 さあ、家をつくろう、借りた素材でなく、きみ自身がきみをつくってきた、天然の素材を用いて。
 きみ自身のための生なのだ。もっと内に向かい、外の目を重視せず。何があるのか、探って行こう。でないと、何のためにもならないよ。
 理解されることを望んではいけない。その前に、自己を理解しようとしよう。
 わかってほしいと願う、そのものの正体をあばいて行こう。
 そのための思索であり、考えるということなのだ。
 事象にとらわれることなく、何がその事象をつくったのかを探ろう。可視のものをつくる、不可視のものを探ろう。

 きみに見えるもの、きみが見てきたもの、接してきたもの、触れたものは、きみを考えさせるために、きみを動じさせるためにあったのだ。つまりは、きみのためにあったのだ。
 その意味を吟味鑑賞もせず、なおざりにするのはやめよう。
 きみは、きみ自身に導かれる。誰に導かれるのではなく、きみ自身によってきみは導かれていく。そこに意志は存在しない。我意は存在しない。きみは無思、無意思のままに、きみ自身によって、その手足を動かしていく。動かされていく。それは紛れもない、きみの手足だ。きみはきみの従であり、(あるじ)である。
 事象、事物、きみの周囲、きみが影響を受ける事柄は、全てきみのためにあるのだ。思考の働きは、きみのためにある。誰のためでもない、きみ自身のためにある。

 人が人にできることは、その人がこんな自分であることに気づく、そのきっかけをつくることしかできないとキルケゴールは云う。それを契機とするか、そんな自分は気に入らぬと唾棄するかは、自由だ。そこにきみの意志が初めて顔を出す。
 だがきみはきみを知ろうとする。そのために存在しているのだ。全てを受け止め、受け容れようとする。自分のために、自分のために。
 そんなきみを見て、人はきみを「やさしい」と言う。言わせておけ、言わせておけ。
 きみは、きみの道をつくり、きみの場所をつくるのだ。
 そのために、引き受けていくのだ。可視なる世界、人、物、事象をきみの中に取り込んで、

として、それを考察していくのだ。
 紛いものでない、きみ自身の事として。
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