第78話 一週間ぶりのインターネット

文字数 1,865文字

 何となく、まさに何となく、パソコンを片づけてみた。机の上にあるとやってしまいそうなので。
 それまで、朝起きるとまずパソコンの電源を入れるのが習慣になっていた。そしてとにかく書くのだ。まったく、思考は際限がなく、一つの言葉を入れればいくらでも紡がれていく。特に物語を作っているわけでないので、その時の気分(気分! このためにどれだけ悲喜がもたらされたことだろう!)を導線に、しかしひとりよがりにならないよう、だから一つの言語に散らばる思考を鋳型をする、一つ一つの羅列が、文という形式を取っている。
 すると、その型から洩れたものが、部屋の片隅に残る。思考のなかでは繋がっていたものだ。ただそのとき形にする話頭にそぐわなかった。精神の中では繋がっていたものが、言語に表わされる時、取捨選択が要される。そこで捨象されたものが、片隅で根を生やしていくのだ。

 日常生活でも、このようなことが往々にしてある。何か言わなければならない場面に逢着する。たくさん言いたいことが流星群になって立ち現れても、そのいちいちが全て言い表されるわけでない。何か言うべき相手の情況、気持ちを推察し、関係の中で自省すれば、ほぼ何も言うことはないという気にもなる。だが、それはそれだけ言いたいことが山ほどある、ということでもあるのだ。

 さて、一週間。インターネットをしない生活をしてみた。
 いかにPCに縛られているか、それを望んでいたかが、よく実感できた。朝、机に向かっても、窓の外の樹木が見えるだけである。それを遮っていたものは、部屋の隅に置かれている。
 ラジカセの電源を入れ、FMを聞く。テレビもなく、新聞もとっていないので、唯一の情報、社会で何が起きているのかを知れる媒体がラジオであった。それも音楽が主なので、ニュースは一分ほどで終わる。コーヒーを飲んだりタバコをふかし、歯を磨きヒゲを剃り、本を広げる。
「キルケゴール著作集」。十五歳のときに買い、四十年、ずっと一緒に住みながら、ついに読むことのなかった本。
 全21巻なのだが、購入したのは4巻まで、すなわち「あれかこれか・第一部の上下と、第二部の上下」である。
「世界の名著」で、キルケゴールの生涯と「不安の概念」は読んでいた。だが、生涯は歴史として水のように飲めたが、その著作は精神、思索の論述であって、ずいぶんつっかえた。

 しかし、やっとキルケゴールが解った! キルケゴールの解り方が解った。
 その契機は、第一部の上に収められた「直接的、エロス的な諸段階、あるいは音楽的=エロス的なもの」における、キルケゴールのモーツァルト愛、彼が至高のオペラとした「ドン・ジョバンニ」への記述を読んでいる時であった。
 これは139ページに及ぶ記述で、このオペラの素晴らしさについて、彼は延々と語っているのである。
「ドン・ジョバンニ」は僕の大好きなオペラで、二回も劇場に観に行ったものだ。そしてキルケゴールが記す、舞台の一場面一場面が、そこに流れる音楽が、すぐさま僕の内にも湧き上がり、キルケゴールが言わんとすることの内容が、手に取るように解ったのだ。
 読んでいて、楽しかった。モーツァルトの音楽を通じて、やっとキルケゴールと恋人どうしになれた感じがする。そのまま、今は第一部の下、「誘惑者の日記」をやはり楽しく読めている。これはキルケゴールが婚約破棄したレギーネとの関係をもとに書かれているが、一般に真面目一辺倒と思われがちな彼が、実はユーモリストであることが知れる。夜中に読んでいて、爆笑してしまう場面もあった。

 ところで、インターネットをしない生活。これからも、度々採用して行きたい。
 勉強もそうだが、精神的に集中するだけでなく、時間的・期間的に集中してそれに向かうことが、最も頭に入り、消化しやすい。キルケゴールのような難解といわれる文章に向かう場合、その必要が強く感じられる。まして40年、理解できなかった「配偶者」である。
 この一週間、食べて、寝て、本を読み、食べて、寝て、本を読み、基本的にそうして過ごした。
 バーチャルなようなものが頭から、現実生活から離れ、ゆったりと、自分の時間、生活に根ざした生活、行動、行為がそのままこの生活自身に生きるのだということ、当たり前のことが当たり前であっても、当たり前の前に当たり前のことがあるということ。これがちょっと、しかし結構よかった、と言って差し支えない。何より、キルケゴールと同じ風景を見、同じ町を歩け、同じ部屋にい、その存在がやっと身近に感じられたことが。
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