第147話 夢うつつ
文字数 2,045文字
朝、まだ暗い頃に目が覚め、布団の中でじっとしている。寝返りを打ったり、また仰向けに戻ったり。「人の身体は、本能的に
また、工場で働いていた時の、食堂を思い出す。もう辞めよう、と考えていた時だ。ひとりで昼ご飯を食べていて、2、30メートル先の壁際にいた、エンジン製造部で仲良くなった、20代の男の子が、ぼくを見つけて手を振るのが見えた。だが、ぼくはその時、手を振り返さなかった。
鋳造部に配属されてから、あまり親しい人もできず… もちろん職場の人たちとは仲良くやっていたが、エンジン製造にいた時が、ほんとに沢山の人と仲良くなれた。辞めたくなった理由はそれだけでないが、もう辞めるんだ、と本気で決めていた。
辞めた後、具体的な稼ぎ先も決まっていない。ひとりで落ち込み、こわばって、オレもう辞めようと思ってるんだ、と2、30メートル先の彼に、もし近くにいたら、打ち明けていたと思う。
手を振り返さなかったので、彼はちょっと、ムッとするというか、少しがっかりしたようであるのが見えた。ぼくは、見て見ぬふりをしていた。見て見ぬふりをしていることは、彼にも分かったと思う。
あの時の数分間のことが、あの、手を振ってくれた彼の、その姿が、ここ数日、毎朝思い出されて来る。そして、「ああ、もうダメだ」とか、「死にたいなあ」とか、ぼくはいきなり独り言 ちている。
きっと、手を振り返さなかった悔恨、大袈裟かもしれないが、ほんとに後悔しているのだ、あのとき手を振り返さなかったことを。ロッカーとかですれ違っても、気さくに何か、よく話し掛けてくれたし、こっちもいつもの冗談をいって、たいてい笑い合っていた。
その彼を、あれが最後だったと思う、まもなくぼくは辞めたから、最後に、無視してしまった、このことが、ずっと残っているのだと思う。
その後、工場のどこかですれ違い、そのさい「いつもの自分」であれば、彼にぼくは謝ったろう。あの時の自分の失態を、取り戻そう、自分で自分をフォローしようとして、あの時の気持ちを正直に言い、やさしい彼は、そうだったんですか、みたいに言って、二人やんわり、何か会話をしただろう。
そうして、また工場内ですれ違ううちに、手を振り合ったりしただろう。
毎朝、あの、手を振ってくれた彼が、思い出される。そして、ああもうダメだ、死にたい、である。
そのうち窓の外が、カーテン越しにしらじらして来て、カラスが鳴く声がして、寝床を出る。リビングの暖房を入れたり、インスタントコーヒーをつくって自室に行く。炬燵に入ってPCに向かい、こうしていると、やがて二階から家人が降りてくる音がする。ぼくの部屋は階段のすぐ下にある。フスマを開けると、彼女が階段にいる。
「あっ!可愛い、可愛い人がまた起きてきたぞ!」ぼくがサルのように言う。「パパ、おはよう」と彼女が言う。これが朝の恒例の挨拶である。リビングで彼女が着替えるうちに、ぼくは台所の瞬間湯沸かしポットに浄水器からの水を入れ、スイッチをONにする。ふつうの魔法瓶(魔法瓶!)だと、彼女はドリップ式のコーヒーを飲むため、湯が注ぎにくいらしいため。
それからまた自室に行き、パソコンに向かう。
行ってきます、行ってらっしゃい、を玄関先で言い、洗濯をしたり布団を上げたりする。
職場が近いから、昼に彼女が帰ってくる時がある。玄関が開くと、ぼくは犬のように廊下を走り、「あっ!可愛い、可愛い人が帰ってきたぞ!」と言う。「パパ、ただいま」と彼女が言う。ぼくはミカンをむいたり、バナナを出したり、柿をむいたりして、皿に出す。彼女がパソコンに向かいながら食べる。ぼくはぼくで、また自室に戻る。
昼休憩が終わり、またパート先へ彼女が行くのを見送る。それから掃除機をかけたり、またPCに向かったり、スーパーへ買い物に行ったりする。洗濯物を取り込むのは、午後二時半頃。
日が暮れて、彼女が帰ってくる頃には、ぼくは台所で何か料理している。玄関が開けば、「可愛い人が…!」と出迎える。
彼女が一服しているうちに、パソコンの前にできた料理を置く。どうぞ召し上がれ、と言うと、いただきます、いつもありがとう、などと言われる。
そしてぼくはまた自室、彼女はリビングで何か動画を見ながら夕食。
ほんとに夜になって、風呂に入り、寝間着に着替え、二階の彼女の蒲団に乾燥機を入れたりして、ぼくはリビングと続き間にある和室の、自分の蒲団に入ってラジオを聞いたりする。彼女はヘッドフォンを耳に掛け、歌を歌いながらPCのゲームをしている。
一日が終わって、とりあえず満足な様子のわれわれ。最後に「おやすみ」「おやすみ」を言い、ひとりひとりの世界へ。
基本的にこのような日々をくり返し、ことしももうすぐ終わる。
床ずれ
しないよう、寝返りを打ちます。でも寝たきりになった人には、それができません。で、ずっと仰向けになって、床ずれになってしまう…」介護の仕事をしていた時、勉強会で教わった言葉を思い出す。また、工場で働いていた時の、食堂を思い出す。もう辞めよう、と考えていた時だ。ひとりで昼ご飯を食べていて、2、30メートル先の壁際にいた、エンジン製造部で仲良くなった、20代の男の子が、ぼくを見つけて手を振るのが見えた。だが、ぼくはその時、手を振り返さなかった。
鋳造部に配属されてから、あまり親しい人もできず… もちろん職場の人たちとは仲良くやっていたが、エンジン製造にいた時が、ほんとに沢山の人と仲良くなれた。辞めたくなった理由はそれだけでないが、もう辞めるんだ、と本気で決めていた。
辞めた後、具体的な稼ぎ先も決まっていない。ひとりで落ち込み、こわばって、オレもう辞めようと思ってるんだ、と2、30メートル先の彼に、もし近くにいたら、打ち明けていたと思う。
手を振り返さなかったので、彼はちょっと、ムッとするというか、少しがっかりしたようであるのが見えた。ぼくは、見て見ぬふりをしていた。見て見ぬふりをしていることは、彼にも分かったと思う。
あの時の数分間のことが、あの、手を振ってくれた彼の、その姿が、ここ数日、毎朝思い出されて来る。そして、「ああ、もうダメだ」とか、「死にたいなあ」とか、ぼくはいきなり独り
きっと、手を振り返さなかった悔恨、大袈裟かもしれないが、ほんとに後悔しているのだ、あのとき手を振り返さなかったことを。ロッカーとかですれ違っても、気さくに何か、よく話し掛けてくれたし、こっちもいつもの冗談をいって、たいてい笑い合っていた。
その彼を、あれが最後だったと思う、まもなくぼくは辞めたから、最後に、無視してしまった、このことが、ずっと残っているのだと思う。
その後、工場のどこかですれ違い、そのさい「いつもの自分」であれば、彼にぼくは謝ったろう。あの時の自分の失態を、取り戻そう、自分で自分をフォローしようとして、あの時の気持ちを正直に言い、やさしい彼は、そうだったんですか、みたいに言って、二人やんわり、何か会話をしただろう。
そうして、また工場内ですれ違ううちに、手を振り合ったりしただろう。
毎朝、あの、手を振ってくれた彼が、思い出される。そして、ああもうダメだ、死にたい、である。
そのうち窓の外が、カーテン越しにしらじらして来て、カラスが鳴く声がして、寝床を出る。リビングの暖房を入れたり、インスタントコーヒーをつくって自室に行く。炬燵に入ってPCに向かい、こうしていると、やがて二階から家人が降りてくる音がする。ぼくの部屋は階段のすぐ下にある。フスマを開けると、彼女が階段にいる。
「あっ!可愛い、可愛い人がまた起きてきたぞ!」ぼくがサルのように言う。「パパ、おはよう」と彼女が言う。これが朝の恒例の挨拶である。リビングで彼女が着替えるうちに、ぼくは台所の瞬間湯沸かしポットに浄水器からの水を入れ、スイッチをONにする。ふつうの魔法瓶(魔法瓶!)だと、彼女はドリップ式のコーヒーを飲むため、湯が注ぎにくいらしいため。
それからまた自室に行き、パソコンに向かう。
行ってきます、行ってらっしゃい、を玄関先で言い、洗濯をしたり布団を上げたりする。
職場が近いから、昼に彼女が帰ってくる時がある。玄関が開くと、ぼくは犬のように廊下を走り、「あっ!可愛い、可愛い人が帰ってきたぞ!」と言う。「パパ、ただいま」と彼女が言う。ぼくはミカンをむいたり、バナナを出したり、柿をむいたりして、皿に出す。彼女がパソコンに向かいながら食べる。ぼくはぼくで、また自室に戻る。
昼休憩が終わり、またパート先へ彼女が行くのを見送る。それから掃除機をかけたり、またPCに向かったり、スーパーへ買い物に行ったりする。洗濯物を取り込むのは、午後二時半頃。
日が暮れて、彼女が帰ってくる頃には、ぼくは台所で何か料理している。玄関が開けば、「可愛い人が…!」と出迎える。
彼女が一服しているうちに、パソコンの前にできた料理を置く。どうぞ召し上がれ、と言うと、いただきます、いつもありがとう、などと言われる。
そしてぼくはまた自室、彼女はリビングで何か動画を見ながら夕食。
ほんとに夜になって、風呂に入り、寝間着に着替え、二階の彼女の蒲団に乾燥機を入れたりして、ぼくはリビングと続き間にある和室の、自分の蒲団に入ってラジオを聞いたりする。彼女はヘッドフォンを耳に掛け、歌を歌いながらPCのゲームをしている。
一日が終わって、とりあえず満足な様子のわれわれ。最後に「おやすみ」「おやすみ」を言い、ひとりひとりの世界へ。
基本的にこのような日々をくり返し、ことしももうすぐ終わる。