第183話 「書きたい、書きたくない」

文字数 2,455文字

「ラジオ深夜便」に「書きたい、書きたくない」というテーマで、落語家や演出家、ピアニストを招き、話を聞くというコーナーがある。一時間くらい、アンカー(進行役)に「書く」ということについての思い出話、思い、エピソードなどを話す。
 何しろ深夜なので、聞く時もあれば聞かない時もある。たまたま聞いた日に、そのコーナーがあった、という具合である。
 面白いテーマだなと思って聞いていると、テーマよりもやはりその人となりが表れ、そっちの方へ気が行く。落語家は、生真面目な人が多そうだ。職業柄、よく喋るが、情熱的でキチッとしていて、サービス精神に溢れている感じがする。
 演出家のことは、いつか書いたからもう書かない。
 いちばん面白かったのはピアニストで、もう還暦だという女性の方だったが、子どもみたいな喋り方で、素直な感じで、だから一番分かり易く「書くこと」について語っていたと思う。
 耳ざわりが良く、ムダなことをいわず、聞いていて引きつけられた。

 いわく、「わたしは」の主語のときが、よく書ける。そして過去のことを書くことになる。「わたし」のことを書くって、みんな過去のことだと思うんですね…
 ホントにすごい考えます。どんな大作曲家も、書く時はすごい考えて、つくったと思うんですよ。
 わたしが今まで書いた日記みたいなもの… 子どもに毎日お弁当つくって、それを写真に撮って記録してましたね。大きくなった時、「毎日つくってたんだぞ!」と、子どもに恩着せするために(笑)
 日記は自分に向かってしか書けないじゃないですか。わたしが死んだ後、誰かに読まれるのも恥ずかしいとか思ったり。でも今書く仕事をいただいて、人に向かって書く時、自分のことがいちばん書けるんです。
 ── というようなことを言っていた。
 正直な人だなぁと思った。足が地に着いているから、ちょっとのことでも動じない、ナチュラルな強さも感じられた。
 自分に正直に生きてるんだなぁ。今思い出して書いていると、そんな人となりが、聞いていた時よりもみぢかに感じられる。

 すんなり入ってきた声と内容だったので、特に際立った印象がない。違和感がなかったからだ。共感は、楽しいものだが、確認で終わる気がする。そうなんだよな、という確認。
 この確認が、楽しいのだ。そこには、自分が独りでないと感じる気持ちもはたらくだろう。まして深夜である。布団にくるまって、コドクな夜(たいてい夜はそうなる)に、にやにやする。
 だが、それはピアニストとこちらが面と向かって、「ボクもそうです!」というものではない。あくまでNHKのスタジオで、アンカーとピアニストがボード越しに向き合い、話を聞く・話すという、いわば対話・会話を聞いているのだ。こちらは、いわば第三者である。
 もしアンカーが、こちらに代わって共感のあまり「私もそうなんです!」と喜んで、もっと喜びたいために共感箇所を掘り下げていけば、違和感が生じ、あ、そうなんですか、と、いささかガッカリすることになるかもしれない。この世に、一人として同じ人間はいないからだ。

 そして話は進む。
 アンカーの聞き方ひとつで、ピアニストは「あ、そういえば…」と、さっきまで思い出しもしなかったようなことを話し出す。
 ピアニストは、「書く」というテーマをけっして忘れず、話していた。落語家や演出家は、かなり逸れたような話も多かったように思えるが、このピアニストはまじめであった。
「あ、書くことで思い出したんですけど」と話し出す。
「こないだレストランで、お店の方に、サインお願いできますか、って言われたんですよ。コンサートホール以外で、そんなこと言われるの初めてで。わたしのこと知ってらっしゃるんだ、って嬉しくなって。そしたら、支払いの、一括払いのカードのサインだったんですよ」
 おかしそうに笑われる。聞いているこっちも可笑しくなった。
 奇をてらわず、ほんとにそのまんまで、すごい人だと思った。淡々と話し、こんなにすごいんですよ、と何かを強調して聞かせようとするような気配が全くなかった。
 だからよけい、一言一言が響いてきたし、洩らさず聞きたい、ダンボの耳になることができた。そして共感することが多かったので、それだけでよかったのだ。

 しかしラジオというものの面白さを、小・中学生のとき以来、感じている。くだらないものも多いが、落ち着いて楽しめるものもある。二十歳の頃から、音楽を聴くためにFMばかり聴いてきたが、AM、あなどるべからずである。リスナーからの声も取り上げられるし、リクエストもかけてくれたりする。送ったことはないけれど、「つながれる」メディアだと思う。何より会話、人と人との会話をじっくり聴ける機会が、ぼくの場合滅多にない。
 これも、眼がおかしくなってからの「発見」だった。
 身体がおかしくなって寝込んでいた今年の春先は、部屋から見えるエゴノキの花にずいぶん癒された。ミツバチもたくさん飛んでいて、あんなにずっと見つめていた時間も初めての体験だった。
 そろそろ、高く伸びすぎた枝などを切らねばならないが、あれだけこちらの痛みを癒してくれた木に、痛い思いをさせたくない。で、なかなか切れずにいる。

 さて、「書きたい、書きたくない」。自分の場合、何だろう。仕事でもなく、特に書かねばならないこともない。書いたからって、何がどうなるわけでも全然ない。戦争が終わるわけでも、飢餓が救えるわけでもない。
 そして、慣れたら終わる。よく今まで、飽きずに、書いてきたものだと思う。
 できないことだから憧れるのだろうが、何も書かず、生活ができたらと思う。ほんとうに生きて、活動するのだ。
 ネットに書かない時、自分は何をしていただろう?インターネットなしでは、何も書けないような自分が悲しく感じる時がある。
 何か、精算しようとしている気配はする。明日がある以上、解決はいつもなく、とりあえずの域を越えることもなさそうだ。
 いつまで揺れ続けるのかな、このブランコは。
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