第15話 存在を支えるもの

文字数 1,981文字

「人生というものは、見る目さえあれば、こよなく豊かなものだ」
 ── キルケゴールの「不安の概念」に、ふっと出てきた一文。
 私事で恐縮、といっても私事しか書いていないのだが、先日、足腰が自分のものでなくなって、歩くのも難儀になった。
 幸い、登山用の杖が家にあったので、それを支えに立ち上がり、ちょっと歩いてはトイレなどに行き、また床に臥す、という繰り返しの生活。
 まったく、絶望し切っていた。希望、あかるい望みなど、露ほども無い。
 心を起因に、絶望することには慣れっこだが、身体からもたらされる絶望は、まさに絶望そのものだった。全身これ絶望、と言っていい。
 もう一週間が経って、その間、寝床でこの「不安の概念」を読んでいた。
 キルケゴールは、絶望的なこの体に、よく入ってきた。
 曰く、「人間は心と体の総合である。だが、総合であるからには、この二つのものを総合する、三つめのものが必要となる。二つだけでは、必ず矛盾が生じるからだ。この心と体を総合するもの── ささえるもの、包括するものは、精神である」
 ブッダと同じようなことを、このデンマークの哲人も云っていた。

 体が不自由になると、心はあっけなく不安一色に染まった。
 まともに歩けないのだ。買い物にも行けない。働くどころの騒ぎでない。何もできない。これから、どうなるんだろう。… 死、か。と、ぼんやり考えた。
 心が体に持って行かれ(体が心を支配した、とも言える)、キルケゴールの云うところの「総合」の片割れが行方不明になった。みっつめの、「それをささえる精神」など、影も形もなかった。不安→ 絶望の一直線、一方通行のトンネル、出口なし。
 曰く、「それも自由なのだ」。どこかのページで、キルケゴールは云っていた。自由なんだよ── 不安は、自由なんだよ。
 ああ、オレは自分から不安になっている。好きこのんで、自分から不安になっている、と思った。
 長ったらしい文章を、時間をかけて追い追い、繰り返し読んだ挙句の浅い理解だが、自由であるという「存在の基本」のようなものが、そこに書かれてあった気がする。
 僕は、ハッとした。すると、立つ瀬を喪っていた「精神」が、心と体の総合である僕を支えるべく、この身に戻ってきたようだった。
 杖に支えられ、少しは歩くことができた。が、この体の唯一無二のツレアイである心は、一向に立ち上がれず、支えとなるものを持たなかった。
 僕はほとんど寝たきりになりながら、キルケゴールに、いわば「生きる根拠」を求めていたと言っていい。

「当たり前のことを、当たり前と見過ごさない。当たり前のことにこそ、思索する価値があるのだ。私はこの作業が好きだし、何より気に入った仕事なのだ」
 当たり前のことができなくなった身には、ありがたい言葉だった。
 何か励まされた気になって、ああ、オレも生命には限りがあることを知って、回復したらまたパソコンに向かい、思索を幹に言の葉を伸ばせたら、と思った。

 ところで、「不安の概念」は、れいによってキリスト教── とくに「原罪」、罪についての思索が多く書かれている。
 曰く、「倫理学、論理学、心理学が、それぞれの立場の範疇を越えて、罪について解釈しようとするのは、混乱を招くだけである」
 この言は、何もキリストに関したことに限らず、日常生活での物事の捉え方、考え方の道筋を立てるに、つまり混乱しそうな頭の交通整理に、かなり有効な手ごたえを感じた。
 ~学、というほどの表立った「学問」ではないにせよ、生活をやっていれば自ずと「学び」を得ることになる。
 いろんな事象が何かと絡み合い、出口なしの悩みに陥りやすい日常に、これは「人間関係学」、これは「自然学」、これは「自己探求学」、というふうに道標を自分の内に立てて、それぞれの道から外れないよう、横道を侵害しないように考えを進めていく作業は、混沌の沼に溺れそうになる自分を救う手立てになるだろうと思った。

 そして、やはり愉しむことだ。「荘子」のことも、よく思い出した。あの本には、多くの不具者、異形の者が登場する。片腕の無い者。酷い

の者。不気味な皮膚病に犯された者── しかし彼らは、それをむしろ喜んで受け容れていた。
「造物主(この世をつくったもの=自分をそのような姿にしたもの)は、わしをひどい姿にしおったわい」と笑って、周囲の同情へ冗談で返すのだ。「この足がもっとヘンな形になって、車輪のようにでもなったら、車に乗らなくて済むよ。鶏の形になったら、朝に鳴いてみせよう。目覚ましが要らないよ」みたいなことを言って。
 つまり、今おかれた自分の情況を、微笑をもって受容すること。

「見る目さえあれば、人生は、こよなく豊かなもの」
 その目を養うために、僕は読書をしているようであることを、ほぼ寝たきりの生活をした中で、痛感した。
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