第7話 友人たち

文字数 2,525文字

 もう四月になる。早い、早い。
 こないだ、年が明けたはずだったが…。
 なんだか、僕のまわり、「病んでる」人が多い。30年来の友人は、ウツだったりソーウツだったりして、大丈夫だろうと思っていたひとさえ、先日、ナントカカントカという精神的な何かであるらしい。「そうなのかなあ、と半分思うけど、薬を飲むと大丈夫」な感じらしい。職場が、つらいらしい。
 みんな、まじめな人である。まじめとは何かといえば… しっかり、物事に取り組もう、とする姿勢。こころがけ。気を、よく使う。まわす。やさしい。人のことを、考えられること。「客観的に」ものを見れること── そんなイメージだ。
 僕がひとりで勝手に作ったイメージでなく、まわりの人たちから僕が勝手に教わって、いつのまにか出来上がったものだ。
 そこには、もちろん「ふまじめ」な人もいた。そういう人とは、僕は仲良くなれなかった。自分がまじめだから、などというつもりなんか、さらさら無い。
 僕は冷たい人間なので、何もできない。しようとしない… したとしても、相手のために、何にもならないことをする。心をひらいて、人と交流してきたつもりだけれど、ここ数年はすっかり心を閉ざしている。何か、「わかった」気になって、そして自分のことばかり考えている。

 だが、こんな自分が「反戦」、戦争には絶対反対、と、ばかみたいに意固地になるのも、今まで交流した人の影響なのだ。かれらは、僕よりよほど年長で、肉体的な病、老衰等のために、もうこの世にいない。だから、僕はかれらをまるで「自分のもの」にして、かれらの意志、遺志を、確固として継いでいる気になっている。
 生きているものは、変化する。死したものは、もう変わらない。「絶対」になって、もう、それ以上にない。死したものは、生者の自由だ。僕は、かれらから自由を与えられ、その自由選択の一つとして、反戦を気に入り、絶対化している気もする。そしてこの「気」は、きっと変化する。その変化する自分が怖いから、「絶対譲れない」ものとして、反原発、反戦だけは、と、ムキになっている気もする。
 いま生きている友人たちを、僕は全く、大切にできなかったし、できていない。大切だ、と、思うことができているだけだ、と思う。

 ── 未来の人間ビジョン、というタイトルで、未来のことを書こうとしたら、「現在」に立ち帰った。今を、踏まえないでは、未来もへったくれもないからだろう。
 その未来が、へったくれに思えるのは、僕が今へったくれでいるからだ。
 しかし… 自分のことはさておき、親しいひとが、「生きにくい」社会、そしてその中にいる、そのひとのことをおもう。
 僕には、親しい友人のことが、きっとわかっている。まじめで、しっかり仕事をしようとし、まわりのことを考え、とにかく、しっかりしようとしているのだ。
 だが、そうすること・そうしようとすることを、できなくさせる── つらくさせるものが、まわりにあるのだと僕は思う。
 そして、本人は、それをまわりのせいにしない。自分が自分であるために、こうなっているのだ、と、きっと考えている。自分のせいなのだ、と、自分を責めることになり、実際、責めることになる…
 まわりの人間に、きっとイヤなヤツもいる。そいつが苦しめているとしても、それを苦とする自分を責める。そして苦しめる張本人は、自分がひとを苦しめていることを、ほとんど意に介さないのだ。

 外へより、内へ、ベクトルが向く。矢印が刺さるのは、自分の内側── 基本的に、そういうひとが、僕の友人たちに多かった。
「生きにくさ」が、今に始まったことでもないことも、かれらは知っている。だが、以前より

、生きにくさを実感、体験することになっている── それは僕らがトシをとったせいなのか、現実が、ホントウに世知辛くなっているからなのか…
「こんな自分でなければ」。こんな自分でなければ、と、「病む」ひとは思うようになる。こんな自分でなければ、こんな苦しまない、と。
 だが、その「こんな自分でなければ」と思うことが、その自分を苦しめるのだ。そして「こんな自分でない人」とは、「ひとを平気で苦しめて、平気でいられる」ような人なのだ。そんな人に、僕の友人は、きっとなれない。
 そうなれたら、ラクかもしれない。ラクだろうと思う。だが、そうなりたいと思うとき、すでに、そう思われた「自分」は否定されている。自分が自分と乖離、離れてしまうことほど、「自分」にとって苦しいことはない。

 どんどん、何か「人間的」(これも僕のイメージだが)な、「ひとがいて、ひとのなかにいて、他者のなかにあって、初めて自己は自己となり、人間が人間になる」というような自覚が、薄れている人が、上に立ったり、ハバを利かせている気がする。
 ただオレがいて、オマエがいる。フン、それがなんだ。まわりのことなんかには、そんな、重きは置かないよ── そんな考え、考えにもならないような考えが、ヒトに、圧するように、どんどん組み込まれていく気がする。
 ギスギスした、人間関係。そのギスギスさも、何がそうさせているのかも、考えないようになる。病みたくないし、他人のことで悩んだってショーガナイ── あんまし、関係なんか、もちたかないよ── そんな人間が(そしてそのショーガナサは、確かに、ほんとなのかもしれない)、大手を振って蔓延っていく… そんな未来の人間世界のビジョンが浮かんでしまう。

「今起こっていることが、どんなに悪いことでも、それはいずれ、良い方向へ向かっていく」と考えている知人もいる。すべては道程、階梯なのだ、と。「人間が、ホントウに悪かったら、もっと酷い世の中になっていたでしょう」と。
 それも、そうかもしれない、と思う。ただ、ワルいようなヒトが、デカくなってしまうところに、今の問題があるんだと思う。そうさせてしまうのは、何なのか。何がそうさせるのか。
 本能だけが大きくなって、動物のような弱肉強食の世界になってほしくない。たとえ今が、職場や学校なんかで、そのような世界になっている、と、見えなくないにしても…と、ナンニモシナイ人間の僕が、だらだら何か書いている。
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