第64話 モーパッサン 2

文字数 3,113文字

 モーパッサン短編集(二)は、ほとんど流し読んだ。都会に舞台を移した短編が集められ、(一)の牧歌的な雰囲気が失せ、あまり面白く感じられなかったからだ。
 で、次に(三)を。ここには戦争の話、超自然的な話が集められている。モーパッサン自身、兵隊に行き、短い期間であったが戦争をまのあたりにした体験者だった。
 そして超自然というのは、現代で言うオカルト的な、霊的なもの。
 この神秘的というか、不可解な話を読んでいて、戦争の話を読んでいた時もそうだったが、40年前に読んだ記憶が、まざまざと蘇ってきた。そう、これはこういう話だった! と、読みながら、きのう読んだように思い出されてきたのだった。
 この超自然をテーマに書いた短編は、モーパッサンが発狂する前年だかまでに書かれたという。

 しかしこの自然主義作家とよばれる人が、自殺未遂をしたり精神病院に入ったりするとは思わなかった。ヨットを愛好し、農村の生活を描いた、(二)と(一)の短編集には、そんな要素は見当たらなかった。健康的な人だとばかり思っていた。
 目が見えなくなる病気を抱えていたというから、それが不安や憂鬱を煽り、孤独な精神をよけい孤独に追いやったのか… いや、そんな憶測は軽々しい、やめよう。
 ぼくに気になる、ストリンドベリィという作家も、やはり発狂した時期があったらしい。この人の作品はまだ読んだことがないけれど、それにしても、どうして「狂う」ひとが多い、というか少なくないのだろう。
 しかしモーパッサンがそんな晩年だったことに、少なからぬショックを受けてしまった。

 またそれ以上にショックだったのは、小学高学年か中学あたりに読んだこの短編集(三)が、ほんとうについこないだ読んだ本のように、自分に思い出されたことだった。この言葉のつなぎ方、この描写、そして結末。こんなに、記憶は一箇所に留まるものなのだろうか。
 思うに、何か強固な接点、自己とその本の作者に共通の脈のようなものがなければ、こんなふかく、身体の芯に残っていないように考えられるのは、考え過ぎだろうか。
 思春期、身体の成長の著しいときに読んだ本は、こんなふうに、誰にでも残るものなのだろうか。

 すると、自分にも、狂気があるのではないかと思った── もし自己のうちにあるものが、その本と共鳴し、ふかく心に残るのだとしたら。
 だが、自分は大丈夫だ、と、どこかで思った。狂気さんには失礼だが。また、すでに狂っているのかもしれないが。
 本は、多面である。狂気があれば、正気… どっちが正しく、どっちが狂っているのか知らないが、両面以上の多面がある。狂う魅力もあれば、狂わない魅力もある。その真ん中の誘惑もある。
 いずれも、それを読む自己自身の多面と、共鳴するもののように思う。
 この「本」に接し、本によって引きずり出され、自己によって自己の内に刻印が押される「関係」がある。

 あくまで「本」、書いたものと読むものとの接地点である「本」にかぎっていえば、ぼくにはやはりモンテーニュと荘子の存在が大きい。もしこの二人を知らず、ニーチェやモーパッサンばかり読んでいたら(そんなことはできなかったが)、危なかったかもしれない。いやその方がよかったのかもしれないが。

 このモーパッサンの超常現象的な話を読むにつけ、モーパッサンがずいぶん追い詰められていたな、と感じざるをえなかった。本人が体験したことであれ、想像の話であれ、このひと自身が追い込まれていた心情を、どうしても察してしまう。
 ぼくは霊的なものは、あるといえばあるし、ないといえばない、という立場をとっている。それも目に見えないものとの「関係」であって、その関係の一端である自己なくて、それと関係はできないと考えているからだ。だからぼくにはモーパッサンが、自己のつくりだした幻影、それは自己がつくりだしたものであるから本当のことなのだが、それに飲み込まれ、追い詰め・追い込まれしてしまったのだ、とおもう。
 狂気というと、主観/客観、主体と客体が自己のなかで分裂し、その自己自身が自己自身の手に負えなくなるという、むごい情態を想像する。このむごさは、けっしてまわりには分からない。誰もがこの「分からなさ」のうちにあるとは思うが、その分からなさが、過剰に自己を苦しめる、そこに狂気の狂気たる一端があるように思う。

 狂気は、本人にとって、あまりにきびしい現実だ。このきびしさをまどろますには、それをつつむような、俗にいう「おおらかさ」がなければ、とおもう。
 このおおらかさをもっているのが、ぼくにとっては荘子でありモンテーニュだった。

 しかしぼくにも狂気はあるだろう。だが、それを許そうとする自分もある。どこまでも突き詰めようとする自己があれば、適当なところで手を打とうとする自己もある。
「常軌」というものがある。一般的な常識の軌道でなく、自分自身にとっての常軌というものがある。ここを行くために、ぼくは何かこうして書いているのかもしれない。
 生き方、といえば、ぼくはたぶん滅茶苦茶であったかもしれない。だがそれは目に見えるなかでの滅茶苦茶であり、ぼくのなかでは一本の線があるように思える。この線は誰にも見えない。だから書くことで、正当化はできないまでも、その線を明確にしてみたい要求があるようにも思える。言い訳、ともいえる。

 とにかく、おおらかさ。自分に対しても、他人に対しても、これがどこかにないと… きっと、あまりよろしくない。
 そういえば、二十歳の頃にみすず書房から出版されていた「分裂病少女の手記」だか、そんな本も買った。だがこれはあまりに医学的に見られている匂いがして、結局読めなかった。およそ精神たるもの、形のないものに、分類だの区分けだの、そんなものはウソくさく感じられたからだった。

 このぼくの文章じたいが分裂しているが(というのも、あ、これを書きたい、と最初思ったことと、書いている最中からその最初思ったことが離れてきているからで、「今」と数十分前の「過去」のあいだに分裂しているからだ)、最初書こうとしていたのは、このようなことだ── 狂気は、人間のもつ能力である。それを諫める、まるめこむ、なごませるのは、さらなる人間の、力をともなわないような力、おおらかさで── 狂気は鎮めることができる。
 それには、形の見えないものに形を与えること、やさしくそれをつつみこむようなケムリのあることで、自然それは輪郭が浮かぶ。つめたい論理によって角張った四角形に閉じ込めるものではない。
 ただし、狂気、これは自己にしかないものだ。こいつにケムリを与えるのも、自己にしかできないことだ。目に見えるものは明確にあるが、それを見るのは他者のしごとである。自己のしごとは、自己の人生が、まわりからどんなヘナチョコに見えようと、自己の人生として逃れられない、本質的な、根源的な一貫したものがあるということ。そこを注視すること── これができるのも、自己ひとりであること。
 生きて、死ぬ、このひとりの自己として、一貫して生きて死ぬこと。見える枝葉より、土中の根っ子に注視すること── これが見れるのも自己しかいないということ。
 その見る作業が、ぼくにとってはこの一人作業である文章化、言語化であろうということだった。この文や言葉は、ケムリの役割をして、土(ぼこり)のようでもある、ということだった。
 最終的に、主体と客体を、近寄らす、結局「一貫させたい」という望みなのかもしれない。
 だが、それはもとより、一貫した、ひとつのものに過ぎないのだ。自己が、この世にひとりである以上は。
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