第11話 サクラ、散リ始メ。

文字数 1,502文字

 開戦、侵攻が始まって二週間目の頃だったと思う、ヤフーのニュース動画で、一般市民が原発を守ろうとして立ちはだかっているのを見た。市民の一人の、体格の良さそうな男性が、勇敢そうに「原発は渡さない。われわれが守る」というようなことを言っている、翻訳された字幕が流れた。
 僕は、この動画見た時、なんとも絶望的な気分になった。その、守ろうとする原発も、あなたのいのちを、破壊するものだ、と思えてならなかったからだ。
 あの光景は、原子力時代を生きてきた人間の、そしてこれからもそうして生きていくだろう人間の、象徴的な姿のように思えた。
 あ、もう、戻れないんだ。なぜだか、そう感じた。

 非人道的、といわれるバクダンがある。異和感しかない。人道的なバクダンがあるのか?
 おかしなものに、おかしなものが上塗りされて、原形が何だったのか、人を立たせていた肝心な土台がどこにあったのか、わからなくなるような気になる。

 ── と、憂いてばかりいてもしょうがない。
 が、憂うしかないようなニュースばかりが目につく。
 地震も多い。
「善い心をもった者が政を為せば、天災は訪れない」というような故事がある。
 これは嘘だと思う。自然災害(人間にとっての「災害」)は、善心があろうとなかろうと訪れる。
 考えてみれば、自然のそれより、人為による災害のほうが、圧倒的に多い。それは人間にふかい絶望を与えるだろう。同じ人間として、という意識がはたらいて、恨む対象が「人間」になるからだ。
 戦争── 戦争に限らず、小さな、ほんの些細な争いでさえ、怒り、悲しみ、怨恨といった負の感情に、ひとは…僕などは、簡単に飲み込まれてしまう。

 ばかばかしいほどの、わが日常。だから愛しくも思える、この日常。
 上機嫌でデートをしたとしても、入った喫茶店の店員の態度一つで、浮ついた気持ちが落とされる。些細なことで一喜一憂する。まわりに、あっけないほど影響をうける、この生活。
 まわりによって、うわずったり、さがったりするこの気分。
 ナントカ、ナラナイカと思うのは、正体不明のこの心。
「人は、影響し合う生き物だよ」と歌ったのは Mr. チルドレン。

 土手の桜も散り始め、通りすがりに、知らない人と「こんにちは」などと言い合う。おだやかに、笑って挨拶し合えたら、かんたんに晴れやかな気持ちになってしまう。
 あさはか、あさはか。
「軽いもんだよ。時間に、ぜんぶ持って行かれる」
「いいことも、わるいことも」
「その、わるい時間の真っ最中にいる時だけが、つらいんだよね」
「そのわるい時が、いつ終わるのか分からない。それは筆舌に尽くし難い、ひどい、暗澹どころでない気持ちだろう…」
「それも、時間が? 時間が解決する?」
「偶然、 自然、といった、理解できないものからもたらされたものは、同じ自然によって、まだ癒されるかもしれない。時間も自然なものだから。でも、争いは人為だ。人為によって起こした悲惨を、あとは時間にまかせる、なるようになる、なんていうのは、ずいぶんなご都合主義じゃないか」
「人は、理解し合えるもの、というのも幻想か?」
「幻想を抱けるのが人間であるのなら、理解もし合えるものだろうよ」
「支え合って、はじめて人は人であるはずだったが」
「支え合うには、個人がまず、それをしっかり持たないと。自分の中に」
「しっかりしよう」
「そうだ、気を確かに持って」

 土手を歩きながら、そんな夢想に花を咲かせる。
「あたらしい芽吹きのために、花は場所をあけてあげるんだよな」
「そうそう。あたらしい、いのちのために、散るんだよ」
「ひきちぎったり、しなくても」
「きれいだね」
「うん、きれいだ」…
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