第152話 残酷さについて
文字数 3,028文字
子どもの頃は、虫を殺したり、飼っていたジュウシマツをいじめたりするのも平気だった。どちらも、自分が何かになりたかった、
実家の庭にはハンミョウという虫がちらほらいて、当時「ど根性ガエル」が好きだったぼくは、このハンミョウがTシャツに貼り付いたなら、ピョン吉みたいに喋れるようになり、自分が主人公のヒロシになり、あのマンガ(アニメ)の世界に現実がなるのではないか、と思っていたのだ。
また、「宇宙戦艦ヤマト」も毎週見ていて、ヤマトが攻撃されるシーンに、奇妙な魅惑を覚えていた。やられても、「艦」を守ろうとして、古代進や島大介ががんばっていた。そうしてぼくは、家で飼われていたジュウシマツをヤマトに見立て、カルピスをかきまぜるスティック、その先は小さなスプーンになっていて、水をすくってはジュウシマツの頭を目掛け、カゴの上から水滴を落としていたのだった。
残酷な子どもだった。
親の見えないところで、そんな虐待をしていたので、叱られることもなかった。
だが、いつのまにか、そんな「遊び」もしなくなった。これは、イケナイことだとか、やってはいけないこと、と気づいた記憶はない。たぶん、そんな「遊び」のあと(やっている時は夢中なのだが)、何も残らなかった、そんな、ただ虐めただけ、それをやった達成感のようなものがなくはなかったろうが、それより何か後ろ髪を引かれる感じ──要するに心底から楽しめなかった、後味が悪かった、ということだと思う。
ぼくにとっての問題は、なぜそのようなことをし、なぜそのようなことをしなくなったのか、という、きっと考えても答えの出ないようなところにある。
なぜあんな残酷なことをしていたのか。自分でも、おそろしいと思う。わけのわからない自分の、できればフタをして、開けたくない箱の一つである。
この残虐性、自己のなかにあった、そして今もきっとあるであろう残虐性。ソクラテスは自分の野蛮性を自らの意志によって改善した、というようなことを言っていたが、ぼくにそんな意志があったとは思えない。まったく自然に残酷であって、その頃と比べて、その残酷さがいつのまにか弱まった、というふうで、特に何か意識して自己改善しようとした形跡はない。
親の影響は、ある。父は動物好きで、庭に迷いこんできたカナリヤやセキセイインコを鳥籠に入れて飼い始めたり、大きなカエルを道端で見つければ家に持って帰ってきて、庭に放してあげたりしていた。母は、鬱病だったらしいが、やさしい女性だった。
ぼくは、自分の心というものを、いまだに知らないと言っていい。動いているということを知るだけで、一体なにが動かし、その対象に呼応して動いていることを知るだけで、その動いている本体を知らない。
そして感情的になるのだ。
感情、そこには何の考えも働いていない。働く余地がない。怒りや憎しみ、妬みや悲しみは、勝手に、ひとりでに湧き上がる。この身は、そのわけのわからない心に従属する。
その時を過ぎて、初めて、あれは何だったのかと思考を働かせることになる。
十五歳上の兄は、思慮深さのカタマリのような人であったから、およそ感情的になった姿を見たことがない。だからケンカもしたことがない。一度だけ、遊んで遊んでと、あまりにしつこくせがんだぼくに業を煮やして、椅子を頭上に持ち上げ、こっちに向かって来ようとされたことがあったが、それも演技であることがわかっていた。プロレスラーの、上田馬之助が、よくそういう恰好で反則攻撃をしていて、兄はそのマネをしていることがわかったからだ。もちろん、ばかなぼくは急いで母に言いつけに行った。お兄さんが椅子を振り上げた! それも、喜んで言っていたのである。
母は「ふうん、そう」と言っただけだった。わがままな子どもは、兄が今は遊んでくれないことを、でも「わかって」、あきらめた。
兄は、家で犬を飼い始めた時も、それから十七年の間、犬に触れたことがなかったと思う。犬が嫌いというふうでもなく、ただ縁側から眺めていたりした。
母や父が、感情的になる(ケンカではなく)姿は、見たことがある。鬱になって、いつも切羽詰まったような、つらい母と、何ヵ月も接する父も、つらかったのだ。感情的というより、イライラしてしまう、というふうだった。感情をあらわにして、何か口論する、そんな家族の姿を見たことがない。
そんなおだやかな家族の中で、ぼくはそのおだやかさに甘えていた、と思えなくもない。自分の凶暴さが、よけい意識せられ、れいの「オレはこの親きょうだいとは違うのだ」といったような、他者と自己の違いにいわば調子づいていた── 自分の残酷性、あの虫や鳥をいじめていた自分が今も記憶から離れないのは、そんな「調子」が今もあるからではないか、と思う。
はたして理性、思慮というものが、感情を覆いつくせるものであるのか、感情に隷属するのでなく、感情を支配する、そのような人間になれるのか、と考えた時、どうしても兄の姿が目に浮かぶ。まったく、ぼくは兄がイライラしたり、不機嫌そうにしたりする姿を、見たことがないのだ。おそらく兄は、家庭の中のみならず、仕事先ではいっそう、そうであったろうと思われる。
そして、その代わり、やたら上機嫌な姿も見たことがない。常に中庸を保っているというか、母はその寡黙さ、何も顔に出さないようなところが、ツマラナイ、みたいなことをこっそり言ったりしていたが、感情の波に飲まれ易いぼくには、大きな存在として兄はずっと在り続けている。
もちろん、情の起伏は、内面にむろん、あったろう。だがそれを、接する者に、
兄から、また、母や父から、「残酷だ」と思わされたようなこと、何かに対し、そのように接するような姿を、ほとんど見たことがない。すると、ぼく自身に残酷性が表れる時、それが過剰に意識せられた、そしてその家族の中で、自分が異質であること、この自分を
やさしさでもなく、つめたさでもなく、何かそう「在る」存在、そのひとが、そうであることから、ぼくの中をつくるもの、先天的にあったもの以外に、磁石のようにくっついて来、自分をまもる防御壁のようなものが出来上がった──ような気もする。
それを邪魔な壁として破ろうとするものは、自己の外には、存在しまい。
サナギみたいに、きっとそれは、内からしか、破られるものはない。自己の外に、それは厳密には存在しないのだ。よし存在するとしても、その存在を、おのが身を砕くほどに肥大化させるも、卑小化するも、己の内なる作業なのだ。
自分は、その部分の殻を、残酷性の芽をもって破りたくない。残酷を、発芽させたくない。
あのサナギの中は、どろどろと、溶解しているそうだ。青虫から、
この自我、己の、真実の姿は知らねども、残酷性を丸めこみ、成
なりきり
たかった、という願望、一種の夢がはたらいている。実家の庭にはハンミョウという虫がちらほらいて、当時「ど根性ガエル」が好きだったぼくは、このハンミョウがTシャツに貼り付いたなら、ピョン吉みたいに喋れるようになり、自分が主人公のヒロシになり、あのマンガ(アニメ)の世界に現実がなるのではないか、と思っていたのだ。
また、「宇宙戦艦ヤマト」も毎週見ていて、ヤマトが攻撃されるシーンに、奇妙な魅惑を覚えていた。やられても、「艦」を守ろうとして、古代進や島大介ががんばっていた。そうしてぼくは、家で飼われていたジュウシマツをヤマトに見立て、カルピスをかきまぜるスティック、その先は小さなスプーンになっていて、水をすくってはジュウシマツの頭を目掛け、カゴの上から水滴を落としていたのだった。
残酷な子どもだった。
親の見えないところで、そんな虐待をしていたので、叱られることもなかった。
だが、いつのまにか、そんな「遊び」もしなくなった。これは、イケナイことだとか、やってはいけないこと、と気づいた記憶はない。たぶん、そんな「遊び」のあと(やっている時は夢中なのだが)、何も残らなかった、そんな、ただ虐めただけ、それをやった達成感のようなものがなくはなかったろうが、それより何か後ろ髪を引かれる感じ──要するに心底から楽しめなかった、後味が悪かった、ということだと思う。
ぼくにとっての問題は、なぜそのようなことをし、なぜそのようなことをしなくなったのか、という、きっと考えても答えの出ないようなところにある。
なぜあんな残酷なことをしていたのか。自分でも、おそろしいと思う。わけのわからない自分の、できればフタをして、開けたくない箱の一つである。
この残虐性、自己のなかにあった、そして今もきっとあるであろう残虐性。ソクラテスは自分の野蛮性を自らの意志によって改善した、というようなことを言っていたが、ぼくにそんな意志があったとは思えない。まったく自然に残酷であって、その頃と比べて、その残酷さがいつのまにか弱まった、というふうで、特に何か意識して自己改善しようとした形跡はない。
親の影響は、ある。父は動物好きで、庭に迷いこんできたカナリヤやセキセイインコを鳥籠に入れて飼い始めたり、大きなカエルを道端で見つければ家に持って帰ってきて、庭に放してあげたりしていた。母は、鬱病だったらしいが、やさしい女性だった。
ぼくは、自分の心というものを、いまだに知らないと言っていい。動いているということを知るだけで、一体なにが動かし、その対象に呼応して動いていることを知るだけで、その動いている本体を知らない。
そして感情的になるのだ。
感情、そこには何の考えも働いていない。働く余地がない。怒りや憎しみ、妬みや悲しみは、勝手に、ひとりでに湧き上がる。この身は、そのわけのわからない心に従属する。
その時を過ぎて、初めて、あれは何だったのかと思考を働かせることになる。
十五歳上の兄は、思慮深さのカタマリのような人であったから、およそ感情的になった姿を見たことがない。だからケンカもしたことがない。一度だけ、遊んで遊んでと、あまりにしつこくせがんだぼくに業を煮やして、椅子を頭上に持ち上げ、こっちに向かって来ようとされたことがあったが、それも演技であることがわかっていた。プロレスラーの、上田馬之助が、よくそういう恰好で反則攻撃をしていて、兄はそのマネをしていることがわかったからだ。もちろん、ばかなぼくは急いで母に言いつけに行った。お兄さんが椅子を振り上げた! それも、喜んで言っていたのである。
母は「ふうん、そう」と言っただけだった。わがままな子どもは、兄が今は遊んでくれないことを、でも「わかって」、あきらめた。
兄は、家で犬を飼い始めた時も、それから十七年の間、犬に触れたことがなかったと思う。犬が嫌いというふうでもなく、ただ縁側から眺めていたりした。
母や父が、感情的になる(ケンカではなく)姿は、見たことがある。鬱になって、いつも切羽詰まったような、つらい母と、何ヵ月も接する父も、つらかったのだ。感情的というより、イライラしてしまう、というふうだった。感情をあらわにして、何か口論する、そんな家族の姿を見たことがない。
そんなおだやかな家族の中で、ぼくはそのおだやかさに甘えていた、と思えなくもない。自分の凶暴さが、よけい意識せられ、れいの「オレはこの親きょうだいとは違うのだ」といったような、他者と自己の違いにいわば調子づいていた── 自分の残酷性、あの虫や鳥をいじめていた自分が今も記憶から離れないのは、そんな「調子」が今もあるからではないか、と思う。
はたして理性、思慮というものが、感情を覆いつくせるものであるのか、感情に隷属するのでなく、感情を支配する、そのような人間になれるのか、と考えた時、どうしても兄の姿が目に浮かぶ。まったく、ぼくは兄がイライラしたり、不機嫌そうにしたりする姿を、見たことがないのだ。おそらく兄は、家庭の中のみならず、仕事先ではいっそう、そうであったろうと思われる。
そして、その代わり、やたら上機嫌な姿も見たことがない。常に中庸を保っているというか、母はその寡黙さ、何も顔に出さないようなところが、ツマラナイ、みたいなことをこっそり言ったりしていたが、感情の波に飲まれ易いぼくには、大きな存在として兄はずっと在り続けている。
もちろん、情の起伏は、内面にむろん、あったろう。だがそれを、接する者に、
あらわさなかった
のだ。そして口を開けば、基本的に冗談しか言わない。ふだん無口で、よけいなことは一切いわない。そして何か言う時は冗談で、まわりを笑わせるのだった。兄から、また、母や父から、「残酷だ」と思わされたようなこと、何かに対し、そのように接するような姿を、ほとんど見たことがない。すると、ぼく自身に残酷性が表れる時、それが過剰に意識せられた、そしてその家族の中で、自分が異質であること、この自分を
愛でよう
としたが、愛しきることは結局できなかった… 子ども時分の自分を省みた時、そんな心がはたらいて、無意識のうちに自分に生来あった残酷性が、時とともになだめられていった、そんな感覚もある。やさしさでもなく、つめたさでもなく、何かそう「在る」存在、そのひとが、そうであることから、ぼくの中をつくるもの、先天的にあったもの以外に、磁石のようにくっついて来、自分をまもる防御壁のようなものが出来上がった──ような気もする。
それを邪魔な壁として破ろうとするものは、自己の外には、存在しまい。
サナギみたいに、きっとそれは、内からしか、破られるものはない。自己の外に、それは厳密には存在しないのだ。よし存在するとしても、その存在を、おのが身を砕くほどに肥大化させるも、卑小化するも、己の内なる作業なのだ。
自分は、その部分の殻を、残酷性の芽をもって破りたくない。残酷を、発芽させたくない。
あのサナギの中は、どろどろと、溶解しているそうだ。青虫から、
我
にでもなるのだ。この自我、己の、真実の姿は知らねども、残酷性を丸めこみ、成
人
となって、おだやかな春に、気持ちよく飛びたいものだと、今は思う。