第173話 悩みがなければ

文字数 1,197文字

 よく日記を書き、手紙も書いていたものだ。
 特に好きなひとができてから、まして交際が始まってからは、そのひとに向けて書くことしかできなかった。
 それまでは、「漫画研究会をつくりましょう」という、ぼくの書いたハガキが月刊少年ジャンプに載って、北海道や千葉から手紙が来て、5、6人の書いたマンガを一つの小雑誌ふうにまとめたりした。内容はともかく、その装幀はひどいもので、会費(コピー費、郵送費)はお返しして、それで終わったと思う。だが、その間に、手紙のやりとりも多く、ほとんど文通状態のようになっていた。
 ペンフレンド(!)をもったのは中学に上がる頃で、おたがい、ほんとによく書き合っていた。
 手紙を書くために手紙を書いていた、といっていい。おたがい、悩みをいったり、アドバイスめいたことをいって、今日は何をしたとか、これいいですよとか、音楽や本の「話」もした。
 楽しかったから、続いたのだと思う。最初の1年位は週2のペースで送り送られ、徐々に減っていったが、中学を卒業して(同い年だった)池袋のデパートの屋上で実際に会ったりした。

 大学に入る前後から、「高橋の日記」という、ブ厚い日記帳に、何やらひとりで書きはじめた。誰も読む者はいない、自分に向かって、ほんとに自分に向かって書いていた。
 その日の出来事や予定はもちろん、やはり好きなひとへの思いを綴ったページが多かった。
 そしてそのひとと、うまく行かなかったり、落ち込んだりした時に限って、やたら日記帳は文字で埋まった。
「悩んでいる時」が、いちばん書ける、ということができる。何か順調に行っている時は、何も書くことなどなかった。
 結婚当初なんか、幸せだったから何も書かなかった。

 今はどうだ。「書く」ということをしなくなった。手帳を買っても空白ばかりなので、近年は買ってもいない。ペンを持って書くのは、年賀状を除けば、時間にすれば数分間だろう、一年の間に。
 ちょっと、これではイケナイ。カーソルに向かって打つだけでは、絶対漢字が書けなくなる。そしてほんとうに自分に向かうことを、きっと無意識に忘れてしまうだろう。パソコンに、ネットに、頼りすぎている。
 文字くらい、手で書く時間を、もう少し持とう。今年は手帳を買って、来年から付けてみよう。バージョンアップを勝手にされて、パソコンをまた買わされるのも、おかしな話だ。もう、この便利さから戻れないかもしれないが…。
 そうして、手書きの原稿、ひとりの世界にほんとに埋没して、フィードバックを求めず、じりじりと書くことができるようになったら、しめたものだ。
 書くって、そういうものだったんじゃないかしら。
 自分と向き合う。好きなひとに向かう。ほんとに、自分に向かう。
 きっと、悩む自分の根元は変わらない。どんなことをしても、悩むんだ、おれは。
(でもきっと、もう戻れないんだろうな。いや、意志の問題か。)
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