第262話 形にすること

文字数 1,763文字

 いや、しかしソクラテスのダイモーンに、こんなにハマるとは思わなかった。

 一体、何がきっかけだったんだろう。

 自分の内へ内へ。

 それこそダイモーンがここ(・・)にあるようだった。いや過去形でなく、今もある。

 それは形は見えないが、私の核となるようなもの。

 さっき寝床で、もう少しで眠れる時に近所の犬がワンワン鳴いた。で、眠れなくなってまた書いている。

 その寝床で、地球のことを思った。地球の中心、内部の核、丸い、熱を発し続けているもの…?

 私の内部と、地球の内部、その真ん中にある中心が、似通っているように思えた。

 一人一人の人間も、きっと星のようなものだ。

 その内部、中、中心がある。地球の表面、私の皮膚。表層。

 裏も表もない。

 あるのは、今ここにある存在であって、この存在をつくる中と外があるだけのようだ。一つの存在、そのものに。

 … しばらく、本を読んでいない。飛蚊症もあって、もう、この小さな頭に詰め込むこともやめようと思っていた。今まで読んだ本から得て、私の中に残っているもの、今まで出逢ったいろんな人達からの言葉等、それらをよく吟味して、自分の中で消化して、文章を書くことに時間を費やそうと思ったから。

 もう新しい本を読むことはなく、読むとしても今まで読んだ本を繰り返し読むだけだろうと思っていた。

 が、今日アマゾンで池田晶子の「人間自身」を注文してしまった。

 昨日、たまたまつけたラジオで、この本が紹介されていた。この「人間自身」は、25年位前にコインランドリーで見た「週刊文春」に連載されていたものだ。

 あ、すごい作家… 哲学者がいるんだ、と、かなり感動した。それが池田晶子との「出逢い」だった。

 偶然というものに、よく驚かされる。

 この「人間自身」は、池田さんの絶筆だったとか。この連載を書いていた時、池田さんはもう癌に侵されていた。だが自分の死については一言も触れていないという。

 癌は、死の原因ではない。死のきっかけに過ぎない。原因、死因は、別のところにあるのではないか。死因について人間はやたら興味を持つが、生因について何故同等の関心を寄せないのだろうか。死因は、生まれたことにある。ならば生因も、死ぬことにある…?

 ちょっと、かなり正確でないが、この本を紹介していたブックコーディネーターは、そんな感じのことを言っていた。正確でなくて申し訳ない。

 生と死、いのち、について、また「本質」というものをずっと考え続けた人、とも紹介されていた。池田晶子さんは、ほんとにそういう人生を送られた、そして書き続けたのだと思う。

 これは読まなくては、と思った。

 ソクラテスに関する本も書いていて、それは読んだことがある。じっくり、時間をかけて考えて読まないと理解できないような本だった。でも、読んでいて、とても楽しかった。考えていくことが楽しかった。途中で、うっちゃることができなかった。そして読み終えれば、一仕事したような、重労働をしたような気分になった。ああ、頭を使うって、重労働なんだ、と初めて気づかせてくれた本だった。

 池田さんは、死を、まったく怖がっていなかったらしい。これも、ほんとだと思う。「誰が死んだのか?」とその墓碑に刻まれている、とも、だいぶ前に何かで聞いた。

 そう、誰の生か。誰の死か。

 そうなんだよな、いのち。

 とにかく読めるかどうか分からないが、本の到着を待って、またその感想でもここに書こうかと思う。

 あ、そうだ、「形にすること」を書きたかったのだ、私は。

 ソクラテスのダイモーン、もしかしたらそれは老荘思想の「道」にも通じるような気がする。ダイモーンにせよ道にせよ、それはそんな呼び名、つまり言葉、この形に彼らが現わしてくれて、初めて私も意識することができたように思う。感知、感得することはできたと思うが、言葉にされたことで、より立体的に、リアルに、いっそう私の感知が強化された気がする。

 漠然としたもの、でも確かに感じられるもの、それが言葉、文字化されたことで。

 中から出た形。中から、中心から、一人の人間の内や外をつくる、その中心、芯のようなところから、言葉という形になって出されたもの。

 こう考えると、ああ、SNSだのTwitterだの、いいね!だの… なんだか、げんなりしてしまった。
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