第128話(小休止)

文字数 1,188文字

 朝起きて、PCに向かう。以前ほど、飛蚊症がひどくなくなってきた。
 朝がいちばん、書きやすい。寝ぼけているから、それがいいのかもしれない。
「きみ」に向かって、書き始めた。こないだ会った友達から、「自分に向かって書けばいい」と言われて。(キルケゴールが婚約破棄したレギーネに向かって、沢山の著作をつくった、あんなふうに書きたい、というぼくの言葉を受けて、そう言われた)
 レギーネは、キルケゴール自身だったのではないか。そんなことも言われた。
 で、「きみ」(自分)に向かって書き始めた。
 が、「独裁者」辺りから、なぜかプーチン大統領のことが気になりだした。
「裁く」ということ。人間が人間を裁けるのか、そこに神という仲介者がいたならば、それはどういうことになるのか── 自己の地に足を着けず、天ばかりを仰ぐことが人間にできるのか、思考はどこへ行くのか、などと考えた。

 ついでに、ノベルデイズの課題文学賞に、「どうしたら戦争が止められるか」の課題を出したら、どんな作品が集まったろう、などとも考えた。
 自己課題として、書いてみたいが…「いちど起こった戦争を止めるのは難しい」という話を聞き、それを逃げ道に、書かない(書けない)。
 どうしたら戦争のない世界をつくれるか、なら、書けそうだが、どうもつらい。
 現実的?には、「教育」に賭けたい。上から下へのベクトルのない、大人も子供も、女も男も、区別や差別は「個人差」でしかなく、性差も、可視的な違いはただそれだけのことであり、もっと大きなもの、まただから小さなものに向かう…

 むかし行った歯医者は、やたら子供を優遇する所で、大人にはツメタイ感じがした。
 子供が、子供が、といったところで、その子供の育つ社会が、おかしくなっているのなら、おかしな話だと思う。べつに自分がツメタクされたわけではないが、子供が、子供が、という風潮があるのは、何となく社会に対して感じていた。
 おかしな話だと思う。子供を大切に、を旗のように掲げる大人たちは、自分のことを鏡に映さないのだろうかと思う。
 あまり、自分を大切にしている大人を、見たことがないような気がするからだ。
 自分を大切にできないような大人が、どうして子供を(または他人を)大切にできるのか、またできようとするのか、ぼくには甚だ疑問なのだ。

 とにかく、この連載、「─────」以降、とくに「作家というもの」以降、自分の内へ内へ、向かおうという姿勢、体勢でいる。
 ドイツの画家、リヒャルト・エルツェが、「自分の内ほど、ふかいものはない」と言っていた、あの画集の帯の言葉も想い出したりしたが、キルケゴール、またニーチェも、なんだかんだとそっちへ向かったのだと思う。
 恥ずかしがらず、自分もそっちへ向かいたい。
 行けるところまで、行けたらいいと思う。誰にも見向きもされない、かなしげな不安もあるけれど。
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