第35話 「狂う」ということ

文字数 2,010文字

 最後にもう1つ、山川さんの短編を。「ゲバチの花」という小説。
 前記のショートショートでは、かいつまんだら5、6行で終わってしまいそうで、引用することになったが、これは頭の中を辿れば書けると思う。それだけ、何回も読み返した小説だ。そして読み返すたびに、あたたかい、懐かしい、湿った気持ちになる。

 主人公は、有給休暇をとって帰省していた。もう1日、実家にいる予定だったが、いたたまれなくなって出てきてしまった。生まれ育った家が、まるで他人の家になっていたからだ。
 兄夫婦、ことに(あによめ)が実権を握り、両親は小さくなって暮らしていた。庭にあった、こども時分にその木陰で休んだりした木も切られ、バラが植えられていた。一緒にご飯を食べていてもどこかよそよそしく、気が詰まった。郷愁の気分に浸って、ゆっくりくつろぎたかった主人公は、それどころでなくなって、そして逃げるように「おいとま」したのだった。

 帰りの電車、その車窓から海が見えた。何となく、海をもっと近くで見たくなった主人公は、次の停車駅で下りてしまった。
 冬だった。夕暮れも近い。誰もいない海岸を歩きながら、(おれは自殺しに来たように見えるだろうな)と考える。
 駅への道を引き返し歩いていると、「ススム! ススムでねえか!」と老人から声を掛けられる。
「違いますよ、僕はススムじゃありませんよ」主人公が言う。だが、老人は嬉しさいっぱいに破顔して、「はよ帰って()い!」と手をつかみ、ずんずん彼を連れていこうとする。小柄なのに、すごい力。
 その白濁した、老人特有の目には、狂気が宿っているように見える。
「違うったら! 誰か、誰か助けてください!」主人公は叫んだが、誰もまわりにはいない。

 だが、一軒の家の前に、老婆の姿が見えた。「すみません、助けてください、この人、間違えているんです」主人公が事情を話す。老婆は目に涙を浮かべながら、二年前に一人息子のススムが遠洋で海に出たまま船が沈んでしまったこと、あなたはススムにそっくりだし、どうか人を助けると思って、家に上がって、ちょっとの間ススムになって下さいまし、と主人公に頼む。

 困惑した彼だったが、老婆の懇願に折れてしまう。
 座敷に上がると、畳はしなり、いかにも粗末な普請の家。でも、出された熱い番茶が美味しかった。
「ススムは、よく、こうフーフーやって飲んでたべ」老婆に言われ、彼は口をすぼめてフーフーやったりする。
 これがススムの写真だ、と老婆が一枚見せた。全然自分と似ていない。しかも、その写真はセピア色で、相当に古い。
「おばあさん、ススム君が亡くなったのはいつ?」主人公が聞くと、「昭和…〇年だ」と老婆が答えた。
 たしか、さっきは二年前と…。
 この老婆も狂っているのだ。言っていることも、何かおかしい。主人公は怖くなって、その家から逃げ出そうとする。
 だが、そのとき、今までいなかった老人がヨイショヨイショとバケツを抱えて入って来た。
「ほれススム、お前の好きだったナメリだあ! いっぱい、買ってきてやったぞ」
 見れば、貝がバケツ一杯にカチカチと音を立てている。

「ばかだよう、お前さん、そんなに買ってきて…。ススムがお腹こわしたらどうすんだい」老婆が叱る。
 叱られた老人は、見るも無残にしょんぼりした。
 主人公は、ああ、おじいさんは、自分の好意をどうあらわしていいか分からず、それでも一生懸命、このナメリという貝を運んできたんだ、と思う。
「いいじゃないか、母さん、おれナメリ大好きなんだから」彼は、座り直す。
 元気を回復した老人は、「さあ、ばあさん、酒だ。ススムが帰ってきたんだぞう!」

 ── 深夜に、彼は目を覚ます。「川」の字になって、彼の両側には知らない老夫婦が寝息を立てている。
 老婆が、「ススム、寒くないかい」と、掛布団の裾をなおしてくれる。
 主人公は、かたく目をつぶる。

 朝になり、主人公はその家を出る。遠洋漁業の「ススム」君に慣れていたのか、老夫婦は引きとめもせず、「気をつけて行ってくるんだぞ」と言う。
 お金を渡そうとすると、「ばかなことするんじゃねえ。お前がもらう嫁さんに、とっておけ」と言う。
 帰りの電車に揺られながら、主人公は考える。
 きっとあの老夫婦は、あの町に来る青年を全員ススムだと思い、ああやって家に招き入れているのだろう。…

 ぼく(かめ)は、この物語を読んで、やはり打たれずにはいられなかった。思い出しながら書いていても、あのおばあさんが夜中に「ススム」の布団をなおすところ、そしておじいさんの、喜びいっぱいの好意のあらわし、… 涙が浮かんできてしまう。
 あの夫婦は、たしかに「狂って」いたのかもしれない。だが、それが何だ、と思う。
 あんなにやさしい、ススムをおもう、ひとをおもう、気持ちがあるではないか。
 気取って、かたちばかりの「まとも」さで、「狂っていない」

のほうが、ぼくはよほど嫌いだ。
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