「書かれた辻沢 120」

文字数 1,719文字

 血の匂いが鼻につくじめついた洞窟は天井も低く、這うか這わないかぐらいの姿勢でしか進めなかった。

 あたしはまひるさんのすぐ後ろにいたのだけれど、まひるさんが何度か後ろを振り返るのが気になっていた。

 それは外の青墓の杜に何かを残してきてしまったといったふうだった。

「まひるさん、戻りましょうか?」

 あたしの声かけが唐突だったせいか、まひるさんは少し驚いたようだった。

「いいえ。大丈夫です」

 というまひるさんの言葉を受けて、クロエが

「まひはコトコトのことが心配なんだよ」

 と言った。

 青墓にいるのがあたしたちだけだと分かったとき、まひるさんは気丈に振る舞っていた。

けれどもやっぱりまひるさんはコトハさんのことが心残りだっだのだ。

 まひるさんは伏せ目がちになって言った。

「もうコトハのことはいいのです」

 真意はおそらく違う。

そもそもまひるさんがここに来た理由がコトハさんを救い出すことだった。

それはおそらくまひるさんの心のわだかまりを解くことでもあるはずだった。

事情はどうあれ、妹のコトハさんを手に掛けたのだから。

 まひるさんがあたしの思考を読んで言った。

「そのことですが……」

 少し間を置いて、

「コトハはおそらくアヤネの所にいると思います」

「アヤネちゃんはあの事故でまひとコトコトと一緒に逃げた子だよ」

 クロエが説明してくれた。

 コトハさんがアヤネさんのといることには特別な意味がある。

屍人というのは手を下したヴァンパイアの下僕となって近侍するからだ。

なら、コトハさんを殺したのはまひるさんでなく、

「アヤネです」

 コトハさんはアヤネさんに殺されたのだ。そしてアヤネさんはヴァンパイアだった。

ならばどうしてコトハさんはまひるさんとヤオマン・グランドホテルのあの部屋にいたのだろう。

「コトハはあたしのことをずっと想っていてくれたのです」

「コトコトは姉さん想いなんだよね」

 クロエがまひるさんを見つめて言った。まひるさんはそれに小さく頷いた。

 屍人がヴァンパイアの完全な下僕になるのなら、きっとミユウはあたしのことなど忘れて、記憶の糸を残しなどしなかったろう。

でもミユウはそれをしたし、最後にはあたしの命を救ってくれたのだった。

 だから屍人のコトハさんがまひるさんのことを想って側に居続けたということは納得できた。

「いいんですか?」

「いいです。ここから戻ったら次こそコトハを探しに来ますから」

 まひるさんの前向きな言葉に救われた気がした。

今回のことはまひるさんを巻き込んでしまったと想っていたからだ。

「そのときは、あたしもお手伝いさせてくださいね」

 それにクロエもかぶせて、

「あたしも一緒に来るからね」

 と言った。

「ありがとうございます」

 頭を下げたまひるさんの目の端に涙が光って見えた。

 ……戻ったら。

 まひるさんは何気に口にした言葉だっただろう。

でもそれはあたしにはフラグっぽく聞こえたのだった。

あたしたちは本当に戻れるんだろうか?

そもそも夕霧や伊左衛門はけちんぼ池に沈んだ後どうなったのか? 

「すぐ会える」

 と夕霧は言っていたけれど、どういう形かは分からない。それを知っている人は辻沢には一人もいなかった。 

本当にすぐに会えたなら宮木野のように実際に辻沢にいてもいいはずなのに。

あたしたちは結局二人に会うことはなかった。

 先頭のユウさんが立ち止まって上を見上げていた。

気づくと、あたしたちはいつの間にか大きな空間の中に立っていた。

あたしたちの周囲は薄ぼんやりとした光に照らされていたが、果ては光が届かず暗闇になっているせいでどれくらいの広がりがあるかは分からなかった。

洞窟でずっと漂ってきていた血の匂いがむせぶほど強くなっていた。

しかし、地面は一面平地で血の池などどこにも見当たらない。

「ミユキはここに?」

 ユウさんに聞かれて、すぐに、

「そうだと思います」

 と答えた。あたしにはここがミユウいる場所だという確信があった。

それは足を踏み入れた途端、髪の毛が逆立つような感覚があったからだった。

「ミユウ!」

「ミヤミユ!」

「ミユウ様!」

「おーい」

「ミユウ! いるんでしょう? 返事をして」

 大きな空間にあたしたちのミユウを呼ぶ声が木霊したのだった。
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