「書かれた辻沢 79」

文字数 1,719文字

「みんなありがとう。もういいよ」

 と、すり鉢にユウさんの声が響いた。あたしはすぐにユウさんの所に駆け寄って

「次の潮時で何が起こるか楽しみ」

  と声をかけると、ユウさんは境内の地面を見つめたまま、

「ミユキは怖くないの?」

  とらしくないことを言った。

「怖い?」

「だってボクらが行こうとしているのは地獄かもしれないんだよ」

とユウさん。

 けちんぼ池とは本当は血盆池、つまり血の池地獄のことだと紫子さんは言った。

地獄へ落ちるのは青墓にスレイヤー・Rをプレイしに行くのとは訳が違う。

この世に帰って来られないかもしれないのだった。

「ボクはミユウを是が非でも探し出してけちんぼ池に連れて行きたいけれど、みんなは本当にそれでいいのかって」

 いつになく遠慮がちなユウさんに、

「ついて行っちゃダメなんですか?」

 と聞いた。

「そんなことないよ。みんなと一緒じゃないと行けないんだし。ただミユキもクロエもまだ夢とか他にやりたいことがあるんじゃないかって思ってさ」

 あたしの夢。

ミユウの建築家のようなはっきりした夢なんかなかった。

やりたいことといえば、通ってるフィールドの調査結果をまとめて卒業論文を完成させること。

その先のことはまだ何も考えていない。

大学院に進んでフィールドワーカーの道を究めるか、それとも社会の先生になって細々と調査を続けるか。

夏休みが終わったら鞠野先生に相談しようくらいのつもりだった。

 あたしはユウさんとまひるさん、クロエを家族だと思っている。

家族なら例えそれが地獄だろうと一緒に行くもの。

そんな理由じゃダメですか? 

ユウさんもあたしの気持ちを分かってくれて、ここまで連れてきてくれたのだと思っていたのだけど……。

「あたしはあるよ。やりたいこと」

 といつの間にかユウさんの隣にクロエがいて話に割って入ってきた。

「だろ」

 とクロエを見てユウさんが言った。

「あたしはもっともっとオタ活したい。だからまひについて行く」

 クロエらしい答えだった。

 そういえばまひるさんはどう思ってユウさんと一緒にいるんだろう? 

これまで聞いてみようともしなかった。

まるでそれが当たり前かのように思ってきたけれど、まひるさんにだって行くだけの理由があるのじゃないろうか?

 社殿の前まで来ると、そこでパジャマの少女が待っていた。

「次はいつだ?」

とぞんざいに聞いてきた。

まひるさんは少し離れた手水鉢のそばでこちらを見ている。

「1週間後、満月の夜」

とユウさんが答えると、

「きっとだぞ」

 と言ってパジャマの少女はすごい早さですり鉢の石段を上っていった。

「名前も言わなかったね」

 とクロエが言うと、まひるさんが、

「アレクサンドラさんだそうですよ」

というので、あたしは意外な感じがして、

「あの子が自己紹介をしたんですか?」

 と聞いた。するとまひるさんはいたずらっぽい顔をして、

「いいえ。さっき心を覗いたら、あたしはアレクサンドラ、あたしはアレクサンドラって繰り返してたんです」

 あの子ってロシアっぽい名前だったんだ。そういえば顔つきが日本人ぽくなかった。

 その後、みんなで鬼子神社の掃除をして一旦辻沢に戻ることになった。まひるさんがごちそうしてくれるそう。

 再びまひるさんの車の中。

後部座席に収まってワインディング・ロードの横揺れに耐えるのにも慣れてきた。

 遠く下方には真っ黒な青墓。

一週間後、あそこに出発したら二度とこの世に戻って来られないかもしれないのだ。

 あたしはやっと20才。人生100年ともいうから4分の1にもなっていない。

この先80年あればいろんなことができるだろうな。そう思うと少しもったいない気がしないでもない。

 ユウさんがバックミラー越しに言った。

「みんな、潮時までに少し時間があるからやりたいことしておこうな」

 やりたいことか。

鞠野先生には挨拶しておきたいし、ゼミの人たちは、別にいいか。

卒論仕上げるのはちょっと無理だし。あとは……。

お養母さん。

 車が駅前通りまで来ると、まひるさんにお願いして駅のロータリーに入ってもらった。

「すみません。せっかくのお誘いですけど、ここで降ります」

 とみんなと別れ、あたしは汽車に乗って藤野の家があるN市に向かったのだった。

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