「書かれた辻沢 8」

文字数 1,960文字

 クロエは東京での潮時に一度だけ不可解な行動をしたことがあった。

クロエの行動は記憶の糸が見えるあたしにはよく理解できた。

クロエが彷徨いそして時に誰かに寄り添うとき、必ずそこは記憶の糸が交差する場所だった。

あたしにはクロエがその交差する点と点とを結びつけているように見えるのだ。

ところがその時は、記憶の糸に沿うこともなく決められた道順を辿るように行きついたのだった。

そこはクロエのアパート近くの坂道にある古びた医院で、あたしもクロエのところに遊びに行くとき何度か通ったことがあった。

クロエは医院の前まで来ると垣根を乗り越えて、ある病室の窓を覗き込んだ。

その病室にいた少女はクロエに気付くと窓を開けて顔を出し、クロエと何かやりとりをしているようだった。

発現したクロエはあたしでも未だに怖いのに、その少女はまったく平気な様子なので、おかしいとは思った。

けれど遠目で見ていたあたしは、さらに近づこうという気にはなれなかった。

その少女から何か禍々しいものを感じたから。

このことを後からそれとなくクロエに聞いてみたが、潮時のことだからだろう、まったく覚えてはいないようだった。

ただ、医院のことは垣根に咲く山吹の花が大好きだと言ったのだった。

その病室の少女がミユウの記憶の糸の中にいた。

もっとあたしが用心深かったら、せめて後から少女の記憶の糸を読んでいたら。

あたしの怠慢がミユウを危険な目に遭わせたとしたなら、あたしはユウさんに顔向けが出来ない。

あたしにミユウの記憶の糸を読む資格なんてない。

そう思うとこの場から逃げだしたくなった。

後ろを振り向いた。咥えた糸が口角を引っ張る。

鞠野先生があたしを見ていた。

「後悔なんて時間の無駄だよ。過去に起こったことはどうしようもないからね。ならその時間で未来のことを考えたほうがよくない?」

 昔、鞠野先生は言ってくれた。

人と関わる度に失敗してばかりの自分を責め苛なんでいた頃だ。

この言葉であたしは足を前に踏み出せるようになったのだった。

今は後悔している時ではない。

未来のため。

ユウさんと夜野まひるさんのため。

なによりミユウのために。

あたしは前を向き、ミユウの記憶の糸を読まなければならない。

 パジャマの少女がミユウを引きずり倒しその首に齧り付いた。

ミユウはおもむろに自分の薬指を咥えると、顎に力を込めてそれを食いちぎった。

そしてパジャマの少女の目を盗んで、その薬指を雄蛇ヶ池に向かって放り投げた。

ミユウは赤い糸からユウさんの心の内を探られたくないと言っていた。

自分の歯で指を食いちぎるなんて、とてもあたしにはできない。

夕霧にしろミユウにしろ想いが強すぎる。

改めてミユウとユウさんの固い絆を思わずにいられなかった。

 パジャマの少女がさらに正体を現し、凶悪なヴァンパイアの姿でミユウに纏わり付いている。

見る見るうちにミユウの顔が土気色になっていく。

あたしはそれを直視できなくなってしまった。

思わず目を瞑ったが読む行為の最中に目を閉じたことなど始めてのことだ。

しかし、あたしの目前の惨劇はあたしを捉えて放さなかった。

目を見開いてそれを見届けることしか記憶の糸を読むあたしには許されてはいなかったのだ。

あたしはうろたえた。

このまま正気ではいられないような気がした。

この先のミユウの記憶の糸を読むことが怖くなってしまった。

「ミユキ様なら大丈夫です。あたしたちが一緒です」

 夜野まひるさんの声が聞こえた。

ユウさんの掌から温かいものがあたしの腕を伝ってきてあたしの胸を暖かくした。

そしてミユウの想いを読んでやってくれという願いがあたしの心の中に広がった。

そうだった。

あたしはミユウの最後を見届けて、それをユウさんと夜野まひるさんに伝えなきゃならないんだ。

あたしは心を強くしなくちゃいけなかったんだ。

あたしは真っ直ぐにミユウの瞳を見つめ再び物語の糸が紡がれるのを待った。

 ミユウは、恐怖に立ち向かい決して心で負けていなかった。

その姿に涙が止まらない。

あたしは嗚咽しながらミユウを見届ける。

「屍人のあたしをきっと見つけて、ユウの手でけちんぼ池に沈めて欲しい」

 ミユウの声が聞えた。

これはミユウが遺した言葉だ。

ユウさんと夜野まひるさんにかならず伝えるよ。

 ミユウは青い炎を発し雄蛇ヶ池の砂利道に吸い込まれようとしていた。

「でも、あんまり無理しないでね」

 こんな時までユウさんを思いやってる。涙がとまらない。

「さようなら」

 いよいよその刹那、その最後の最後になってミユウの心に明かりが灯った。

「大好きだよ。ユウ」

 と告げ、ミユウはこの濁世を後にしたのだった。

 すごく立派だった。

あたしはミユウと半身だったことを、この世に一緒に生を受けたことを誇りに思う。

でも、さようならはしない。

夕霧太夫も言っている。

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