「辻沢ノーツ 68」

文字数 1,374文字

 社殿の暗がりから這い出てきたもの。あたしはそれのことをよく覚えていた。爛れた黒い肌、ジクジクと滲み出る血膿。奇妙に捻じ曲がった手足。潰れた目鼻。髪のない頭。それは火事場から引き上げた時のあの夕霧太夫そっくりだった。でも………。

「助けて」

黒焦げのそれは捻くれた腕を伸ばして頭をもたげ、逡巡するあたしに向かって焦げ臭い息を吐きかけながら言った。

「Nさんなの? どうして?」

「お願い、あたしを助けて。あの時のように」

「どうすればいいですか?」

「あたしをあの池に連れて行って」

池って、やっぱりNさんをけちんぼ池に送ったのは夢だった? 

いかがわしさを拭いされないまま手を伸ばして助け起こそうとした時、何かがあたしの目前の空気を切り裂いた。

驚いて一歩後じさってそこに屹立したものを見ると、それはロングスリコギで、その赤黒く爛れた頭部を貫通して板間に突き刺さっていた。

「クハッ」

それは口から息を吐くと激しく痙攣をした後、動かなくなった。

「Nさん!」

駆け寄ろうとしたら、その体からじりじりと炎が燃え立ち、次第に青い光を放ちながら、ついには社殿の中を隈なく照らし尽くす光輝となったかと思うと、急速に消沈した。

目がくらんで視界が真っ暗になったけど、慣れて来て床を見ると、黒い煤の人型だけが残っていた。

あたしは祭りの時の青い光のことを思い出した。

煤跡に近づこうと一歩踏み出した時、今度は上から白いものが降ってきてあたしの前に立ち塞がった。

「おひさ」

それは白いパーカーにショートデニムのユウだった。

「ユウがやったの?」

「そうだよ」

「Nさん、だよね?」

ユウは、床の煤の跡を見下ろして、

「こいつはひだるだよ」

と言った。

ユウが言うには、Nさんはずっと前からひだるに憑りつかれていたのだそうだ。

最初に脳梗塞で倒れたあたりからだと言う。

「こいつはクロエに憑りつこうとしてた。死期の迫ってたNからクロエに乗り換えようとしたんだ」

ひだるは人の心の隙間から入り込んでその人に憑りつくという。

ユウはNさんがあたしに何をしたのかを聞いた。

詳しくは話せないけど二人に共通する話をしたんだとだけ説明すると、ユウは言った。

「夕霧太夫と伊左衛門の話をしたんだろ」

どうしてそれを? 

驚いて二の句が継げないでいると、

「あの話は憑りつくのにもってこいの話だからね。特にクロエのような子にはね」

「でも、あの話はすごく身近でリアルだった。まるで二人で思い出話をしているみたいだった」

「それは、クロエがあの話の主だからだよ。ひだるはそれを利用しただけ」

Nさんは話し始める前に、これはあたしの話だといったのだ。

ユウはあたしの側に来ると、あたしの額に指をあてて説明しだした。

「ひだるは人の深奥にある記憶から心に忍び込み、そこにある情念を鷲掴みにすることでその人に憑りつく。それは抗いようのない感情の絆を芽生えさせて、自分とひだるの区別をつかなくする方便なんだ。一度そうなったらあとはひだるになるまであっという間だ」

あの話を聞いた後、あたしは説明できない激しい感情をNさんに抱いたのだった。

あれはひだるの方便だった?

「でも、語ったのはNさんだった。あたしの話なら、何でNさんがあの話を知ってたの?」

「まあ、Nはもともと鬼子だったわけだし、夕霧と伊左衛門の物語を知る術ならここにもあるからね」

とあたしの背後を指差した。
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