「辻沢ノーツ 32」 

文字数 1,208文字

 6時過ぎ、部屋のドアの下からメモが差し入れられた。

夕食の用意が出来たという。

今日は娘さんとあの子供がいると思って賑やかな食卓を期待して台所に降りて行ったけど、用意されてたのは一人分の食事で家政婦さんも既にいなかった。

でもそれはいつもの見慣れた食卓なので気にすることなく、一人でアマゴの塩焼きを食べていたらAさんが帰って来た。

テーブルのあたしを見て、

「何かありましたか?」

と言う。

こんな早い時間にあたしが食卓にいることを言っているのだろう。

実際、夕食前に四ツ辻から戻れたのは最初の3日間だけだった。

その後からは夕方に農作業が終わってから伺う今のやり方がずっと続いている。

だから、こちらに帰宅するのはいつも10時過ぎになってしまい、それからお食事をいただくことになっていた。

 あたしは、きっとあの子の口からバレるだろうと思い、昼間に踊り場の部屋に入ったことをAさんに白状した。

するとAさんはその時の子供の様子を聞きたがった。

あたしはおばあさんと四宮浩太郎のこと以外、すべてを話した。

話を聞いたAさんは眉間にしわを寄せて、

「そうですか。それならばノタさんにはここから出て行っていただかないといけません」

あたしはしでかしてしまった。

どうしよう。ここを追い出されたら、それこそキャンプ生活でもはじめなければならない。

あたしは勝手にあの部屋に入ったことを必死で謝った。

そして、もう少しここにいさせて欲しいとお願いした。

するとAさんは、

「いいえ、そうではないんです。部屋に入ったことなど気にしてはいません。『辻沢ノート』を引き継ぐご意志がおありと聞いたときから、いつかあすこを見ていただこうと思っていましたし」

じゃあ、何で出て行けなんて言うんだろう。

Aさんはしばらく険しい顔のまま黙っていたけれど、意を決したかのように一度天井を仰ぎみてから、誰に言うともなく、

「あの子が目覚めるとろくなことがないのです」

と言った。

 意味が分からないまま、Aさんに荷物をまとめるように促されて、ワンボックスカーのハイヤーでAさん宅を出た。

行き先は駅前のヤオマン・イン。

フロントには既に連絡が付いていたようで、すぐに部屋に通された。部屋の中に荷物を置いて、ベッドに腰掛けてしばらく呆然としていた。

まるで捨てられたゴミのような感覚だった。

やがて全てを台無しにしたのは自分だと思い至った。

あたしがあの部屋に入らなければ、あの子は現れなかった。

あの子の興味を誘ったのはあたしだ。

そう思った。

すると、いつもの後悔の念が湧き上がって来た。

喉を掻きむしって胸を切り裂き自分の心臓を剥き出しにしてやりたい衝動。

せっかく人とうまくできていたのに。

丁寧に関係を積み上げて来たつもりだったのに。

結局こうやって全てを失うことになる。

それがあたしという存在なんだ。

自己嫌悪と寂寥感と無力感と、いろんな感情に押しつぶされそうになって声にならない嗚咽が喉の底から漏れ出て来た。
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