「書かれた辻沢 91」

文字数 2,090文字

 クロエとあたしが鬼子神社の社殿の階を上り勾欄の中から見下ろすと、境内は見渡す限りの血汚泥の海になっていた。

 波間には無数のひだるさまが見え隠れしていて、そのすべてがこの社殿に向かって押し寄せていた。

 クロエとあたしの横でユウさんもまひるさんもそれを見下ろしている。

 「早くこっちに上がって来い!」

  ユウさんがパジャマの少女改めタキシードの少年アレクセイに向かって叫ぶ。

 アレクセイは、社殿前の三本柱の鳥居の近くで、血の波にもまれながら一人でひだるさまと戦っているのだ。

 「うるさい! 放っておけ!」

 数体のひだるさまがアレクセイを囲み、枝切りばさみを繰り出しているが、それを素手と蹴りだけで応戦しているのだったが、その数はどんどん増えていた。

 その時、社殿が大きく揺らいだ。そして後方に大きく傾いだのだった。

 あたしはとっさに手近な勾欄に掴まった。

クロエは近くの柱に抱き着いてかろうじて下に落ちずに済んだ。

 気づくと前方の鳥居が倒れて、中一本だけが上に向かって立ち上がっていた。

アレクセイの足元の赤い波が後方に流れ、崩れた石畳の下から床らしきものが現れ出てきている。

傾いた勢いでアレクセイと周りにいたひだるさまが階の元まで転がり落ちてきていた。

 まひるさんが勾欄に掴まりながらその中からアレクセイの手を持って社殿に引きずり上げる。

ひだるさまがそれに取りすがるも、ユウさんの黒木刀で払われてゆく。

 その間も、他のひだるさまが社殿に這い登ろうとするので、あたしとクロエは黒木刀を振るってそれを外に排除しなければならなかった。

 社殿の傾きが中空で止まった。鳥居の柱が赤い月を指し示すかのように天空に突き出ていた。

 そしてしばらくそのままでいたのが、今度は後方から強い力で押し出され社殿全体が上昇したかと思うといったん止まり、その後ゆっくりと前方に傾ぎだした。

 そして打ち付けられるような衝撃の後、前後の大きな揺れが収まるまで数分して、再び平行に戻った。

 社殿の前方は甲板になっていてそこから鳥居の柱が突き出ていた。

社殿自体は2階構造で、その周囲を木の壁が囲っていて中から後方は血汚泥が小波を立てて溢れている。

 境内に目を移すと目線が高くなっていた。見下ろす血の波間が遠いのだ。

「浮いたんだ」

 地面が血の海になったなら、浮力のあるものは水面に姿を表す。屋形船である社殿もその原理で浮上してきたようだった。

 どうやって地中に埋まった船を掘り出すのか? 

ユンボで掘り出すとか悩む必要はなかったのだ。

 改めて船の姿を現した社殿を見て、ミユウの部屋に貼ってあった船図面を思い出す。石畳の図面とともにミユウのこの夏の集大成。

 舳先に見える鳥居の柱は帆柱だ。

それは、ミユウが最下層の竜骨を実測してその先を予測した結果、舳先ではないと判断して導き出したことだった。

「ミユウ。あんたはすごいよ」

 寸分たがわぬその成果に感動すら覚えた。ミユウに会って早くこのことを伝えてあげたかった。
 
 
 
 船は平行を保ったのに社殿の揺れはいつまでも治まらなかった。

無数のひだるさまが船体に取りすがって揺るがしているせいだった。

「アレクセイ!」

 ユウさんが叫んだ。

 アレクセイがまひるさんの手を振りほどいて前方の甲板に降りて行くのが見えた。

そこには血汚泥の海に落ちずに取り残されたひだるさまが大量にいて、待ち構えていたかのようにアレクセイに攻め寄せてきた。

その数相手ではアレクセイも難儀のようで、いつもは冷ややかなその表情がどんどん歪んでいく。

「ミユキたちはここにいろ」

 とユウさんは言うと、アレクセイとひだるさまの真っただ中に飛び込んで行った。

それにまひるさんもついて行く。

 甲板の上は混戦状態となった。

 アレクセイは素手と足蹴りで、ユウさんは黒木刀を振るう。

まひるさんが手にしているのはキラキラときらめく柄をした長ドスだった。

そうして次第にひだるさまの包囲を押し戻してゆく。

 そんな中でユウさんがアレクセイに階上に戻るように促すが、その度にアレクセイは頑なに首を横に振る。

社殿でならばもっと楽に戦えるのに、そこでなければ済まないかのようなふるまいなのだった。

 それに上空のコウモリたちだ。

一族であるはずのアレクセイが難渋していてなおも不気味なほど静かなままなのだ。

数羽が血汚泥の水面近くまで降りてきているので、もはや結界は存在していないはず。

なのにいっさい加勢しようとしないのはなぜだろう。

 アレクセイにコウモリ・ヴァンパイアたち。

ロシア貴族の末裔か何か知らないけれど、これでは迷惑以外の何物でもない。

 クロエもあたしも登って来るひだるさまに応戦するので手いっぱいなのだ。

ユウさんやまひるさんにもしものことがあったらと思うと、あたしは気が気ではない。

 ユウさんたちが甲板のひだるさまを大方血の海に押し戻しスペースができた。

するとアレクセイが天に向かって両手を広げると、大声で何かを叫んだ。

それはロシア語らしくあたしにはまったく聞き取れなかった。

「なんて?」

「スパシーバしか知らないし」

 とクロエは言ったのだった。
 
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