「書かれた辻沢 34」

文字数 2,757文字

 ホテルの窓から見る夜景は、昼なら西山地区まで見渡せる辻沢郊外の闇だった。

今、下でクロエのタクシーを見送って部屋に戻ってきたところだ。

ようやく怒濤の一日が終わったという感じ。

 クロエの位置情報がずっとヤオマン・インにあるから油断してたら突然部屋をノックされた。

ドアを開けると、こんなみすぼらしい女子大生あるっていう格好のクロエが泣きそうな顔をして立っていて、サキの元に放って置いたのが申し訳なくなってしまった。

とにかくシャワーを浴びさせて着替えさせてご飯を食べさせてって、お世話さんしたのだけれどちょっと外出してる間に逃げた。

鬼子の魂昼まで(鬼子は結局潮時以外も鬼子だということわざ フジノミユキ作)じゃないけど、掴まえたと思ったら手からすり抜けて行くのが鬼子のクロエなのだった。

 それでまた捜索に出ようと思ったら突然戻って来て、何するでもなくぐだぐだと二人で過ごして今バイバイしたところだ。

 半日、何とかミユウで通したけれど、これを毎回するのは正直きつい。

クロエも気付いているような感じだったし、なのに何も言って来ないのは不気味だし。

 気になったのはクロエのスーツケースの話だった。

昼に行ってみたら調邸に戻っていたという。

とするとパジャマの少女はヤオマン・インから持ち出してわざわざ元の家に置きに行ったということになる。

このことは鞠野先生に報告しておいた方がいいと思った。

調邸に情報を入れておくためにも。

「調家というのは宮木野流の本家なんだよ」

 辻沢に入った3人のうちクロエだけがステーと聞いて鞠野先生に理由を聞いたら、そう返ってきた。

「辻沢は、勢力に関係なく鬼子に反感を持っている人が多いけれど、調家だけは立ち位置が独特でね」

 当主の奥様が鬼子にシンパシーを持ってくれているそうだ。

本家なので他からの圧力も少ないと期待できる。

「今はヴァンパイアはいないみたいだし」

 それでクロエをお願いしてもいいと思ったのだそうだ。

 その辻沢の勢力図にパジャマの少女がどう絡んでいるのかは分からないけれど、少なくともあの超絶美人の奥様にだけは知らせておく意味はありそうだった。

 酷く疲れてたけれど、持ってきたショルダーバッグの中からノートPCを出して電源を入れた。

今日あったこと、読んだ記憶の糸のことを書き出さなくちゃ忘れてしまうと思ったから。

さてやるぞと息巻いてキーを叩き始めたはずだったけれど、いつの間にか寝落ちしていた。

 時計を見るとまだ4時半を過ぎていて、窓の外が明るくなりかけていた。

 クーラーを入れっぱなしにしていたせいか部屋の中がいやに冷えている。

悪寒がするから風邪をひいてしまったかもしれない。

 ふと出口に目をやるとドアが少し開いていて、そこから廊下の常夜灯の光が差し込んでいた。

なんて物騒なことを。開けっぱなしで寝ていたなんて。

 椅子を立ってドアを閉めに出口へ向かう。

レストルームの前を通りかかると中からもの音がした。

すでに侵入者がいるのかと思って背筋が寒くなる。

何か武器を探すけれどめぼしいものは山椒の鉢植えくらい。

山椒の根元を持って振り回せばとか考えていると、中からしゃがれた声がした。

「ミユウ、あたしたち友達だよね」

 それはミユウの声だった。どこか違う次元から聞こえてくるような不思議な響きだった。

「あたしはミユウ。あなたは誰?」

 そうも言っていた。

 ミユウが帰ってきたのだ。

あたしは嬉しくなって中に飛び込んで行きたくなった。

しかし足が前に出て行かない。本能が危険な存在だとささやいていた。

 あたしは音をさせないように、さらにレストルームの入り口まで行った。

 おそるおそる中を覗いてみると、前を赤黒く染めたカレー☆パンマンのパーカーが鏡の前に立っていた。

鏡に映るその顔は青白く生気がなく眼は金色をしていて、銀牙が唇を突き破って飛び出していた。

洗面台にかかった右手の薬指からは、黒い血がしたたり落ちている。

ミユウなのだった。

しかしそれは屍人のミユウだった。

 あたしはヒッとなって息が出来なくなった。

会いたかった。ずっとミユウに会いたかった。

でもこんな姿のミユウじゃなかった。

 その時、屍人のミユウがこちらを向いた。

金色の眼と目があった。

あたしはドアに向かって走ろうと思ったが、動くことが出来なくなっていた。

すると屍人のミユウは、ゆっくりとレストルームから出てきて、あたしの前まで来た。

そしてあたしの首をその氷のように冷たい手でわし掴んでそのまま後ろの壁に押しつけてきた。

あたしはほぼ息が出来ない状態になった。

目の前に屍人がいる。

怖くて目を瞑ろうとしたけれどそれすらさせてもらえなかった。

「ミユウ、あたしたち友達だよね。あたしはミユウ、あなたは誰」

 と鏡の前で言っていたことと繰り返した。

しかしどこから声を出しているのか唇はまってく動いていなかった。

あたしはそれに対して反射的に、

「あたしはミユウ」

 と答えた。それを聞いた屍人のミユウは、あたしの鼻先すれすれまで目を寄せてあたしの顔をなめ回すように見てから、

「あたしはミユウ。あなたは誰?」

 ともう一度同じ事を言った。

「あたしはミユウ」

 あたしも反復する。

屍人のミユウの反応は前と全く同じだった。金色の眼であたしの顔をなめ回してから、

「あたしはミユウ。あなたは誰?」

 と言った。

もう限界だった。首を締め付けられたせいで頭までボウッとしてきた。

長いこと耐えられそうになかった。

「あたしがミユウなの。あなたは屍人。人ではない」

 何を否定したかったのか。なんでそんなことを言ったのか。

ただ、目の前のミユウがあたしの会いたかったミユウでないと思い込みたかっただけかもしれない。

 すると屍人のミユウは、あたしの首から手を離し、長く伸びた爪で自分の頭をかきむしりだした。

そしてあたしに目を向けると、

カハッ!

大きく口を開き体の奥底から響いて来るような恐ろしい咆哮をあげたかと思うと、剥き出しになった銀色の牙をあたしの喉元に突き立ててきたのだった。

 ……。

 その時の光景は今でも忘れられない。

 あたしが最後を想ってホテルの窓の外に目をやると西山の斜面が朝焼けで真っ赤に染まっていた。

朝日が山肌に反射していたのだ。

ちょうど、それは鬼子神社のある山で、まるで山全体であたしを祝福してくれているかのようだった。

 屍人のミユウの動きが止まった。

そしてゆっくりとあたしの喉から頭を離し、あたしなどそこにいないかのように静かに部屋から出て行ったのだった。

ドアの向こうの常夜灯が朝日に変わっていた。

 助かった。でも悲しかった。

これでミユウはあたしの中で完全に屍人になってしまった。

何度会ってもミユウはもう屍人なのだ。

「またすぐ会える」

 夕霧が言ったのは、こういうことじゃないはずだった。
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