「夕霧物語」けちんぼ池
文字数 2,116文字
翌朝、まめぞうたちが戻るのを待って青墓に出立した。
どうしたわけか桶の下僕が握り飯を持たせてくれた。
その握り飯を食べたのは、陰湿な風のせいで辺りがじめついて感じる青墓の杜の手前の辻道だった。
そこに六地蔵が祀られてあり、一輪の花が手向けてあった。
小さな名前も分からない花だった。
そこの道端に腰かけて握り飯をほおばる三人の大食人にこれまでの手助けの礼を言い、道行で投げられた銭の全てを分け与えて、ここまででいい、あとは自分が車を土車を曳いて行くと言った。
しかし、まめぞうはじめ3人の男はあたしの片足をさして首を縦に振ろうとしなかった。
たしかに片足のあたし一人では、少し行くのでも何時もかかりそうだったが、目的の青墓はすぐそこだ。
今日中に着かないということはないだろう。
問題ないと言うと、まめぞうが新月刀をあたしの目の前に突きだして、自分らも行くと身振りで示した。
どうやらこの先も新月刀の力が必要と言っているようだった。
とりあえず、銭だけは収めてもらい、青墓への道行は再び同行5人ということで再出発した。
青墓の杜に入ると、外よりも空気が冷たく感じた。足を踏み入れた途端に背中の汗がひんやりとして寒気に襲われた。
森の外の陽の当たる野原が樹木を透かして見えていて、それが2度と取り戻せないいとおしいもののようで、ここに入ったことを後ろめたくさせた。
この森のどこにけちんぼ池があるのか。
相当の広さの深く暗い森の中をどうやって探せばよいか。
朽ち葉を踏む足音とぎしぎしいう土車の音だけがする森の道を同行5人が進んで行く。
いけどもいけども終わらない下り坂は、いつまでたってもその果てを明らかにしようとしなかった。
先頭のまめぞうの背中がギシギシと音をたてた。
まめぞうの緊張が高まると着ているものの中からそういう音が聞こえて来るのだ。
ゆっくりと新月刀の獅子の柄を握ると鞘を抜きはらい、両手でそれを目の高さに構えた。
左右を見るとさだきち、りすけもすでに臨戦態勢になっている。
辺りに漂う生臭さ。
暗い森をさらに黒く染める物。
そいつらは、道の先からやって来た。
地を這う者たち、忌まわしき存在。
穢土のさらに底から湧出る輩。
次々に襲いかかってくるひだるさまの群れ。
敵数のやたらな多さに、さすがの3人も膝を突くことが多くなる。
断ち切りばさみのような大爪が、彼らの逞しくも美しい筋肉を切り裂いて行く。
一筋二筋と宙に迸る彼らの鮮血に辺りが赤く染まる。
それでも、夕霧太夫には近づかせない。
その防御の意志が彼らの必死を支えている。
それを土車の上から目の当たりにして、あたしは溢れ出る涙が止まらない。
故郷の国を失って遠いこの日の元に連れてこられた彼らに帰るところなどない。
いま、守るべき唯一の存在を全霊をかけて守らんがために、新月刀の化身となって押し寄せる敵を蹴散らしている。
しかし、やつらの凶刃は最初にりすけを、次いでさだきちを餌食にしたあとまめぞうに襲いかかった。
最初の一撃で、まめぞうの腕があたしの目の前に落ちた。
手には新月刀が握られたままだ。四方を奴らが囲い、もはや最後の気力で夕霧太夫の前に立ち塞がるまめぞうの体を無数の大爪が貫き、その銀杏の大樹ような男は散ったのだった。
奴らが一斉に夕霧太夫をねめつける。
けれど、今、蘇ろうとしている夕霧太夫の邪魔立てをすることは、あたしが許さない。
きっと殲滅する。
それがあたしの因縁生起。
何が起こったのか分からなかった。
目の前が真っ暗になり、意識が飛んだ。
そして、気付いた時は光を一身に浴びながら冷たい水に浸されていた。
「伊左衛門や、送っておくれ」
それは遠いところから聞こえて来る声とは違って、確かに夕霧太夫の体を通して響く、あの美しくも優しい声だった。
あたしは夕霧太夫の腕に支えられ、水の上に浮いているのだった。
けちんぼ池。
あたしたちはそこに辿りついたのだ。
夕霧太夫とあたしはそのままゆっくりと池の真ん中へ進んで行く。
一歩進むたびに夕霧太夫の顔は元に戻ってゆく。
癒しの水。
引き攣れた皮膚は白い肌に溶け、頬に赤みが差し、目が開いて、そこに星のようなきらめきが生まれ、鼻筋は通って、牡丹のような唇から薫り高い吐息が漏れ出て来る。
喉は柔らかに、胸の谷間が生まれ、滑らかな肩をそよ風が撫でてゆく。
「夕霧太夫が道行、ご覧じ候らえ」
今こそすべての人に本当の夕霧太夫の姿を見て欲しいと強く願った。
ふと気づいた。
あたしは熱い。
左肩から右の腰にかけて熱いものを押し当てられているようだ。
恐る恐るその部分を見る。
なかった。
あたしは左半身をなくしてしまっていた。
「心配ない。すぐよくなる」
そういうと夕霧太夫は、最後の一歩を踏み出した。
業深き者を呑込む池。
池の水がその足元に渦となって押し寄せ始める。
少しずつ太夫の体が水の中に引き込まれてゆく。
それにつれあたしの体も水に浸り、遂には水中に沈んで息が出来なくなる。
太夫も水面下に落ち、水の中であたしと目があった。
「またすぐ会える」
太夫の口元がそう動いた。
あたしは少しも怖くなかった。
太夫の言葉があたしにこれ以上ない安堵を与えてくれたから。
本当に会える。
きっと夕霧太夫と次の世でも会えると思った。
どうしたわけか桶の下僕が握り飯を持たせてくれた。
その握り飯を食べたのは、陰湿な風のせいで辺りがじめついて感じる青墓の杜の手前の辻道だった。
そこに六地蔵が祀られてあり、一輪の花が手向けてあった。
小さな名前も分からない花だった。
そこの道端に腰かけて握り飯をほおばる三人の大食人にこれまでの手助けの礼を言い、道行で投げられた銭の全てを分け与えて、ここまででいい、あとは自分が車を土車を曳いて行くと言った。
しかし、まめぞうはじめ3人の男はあたしの片足をさして首を縦に振ろうとしなかった。
たしかに片足のあたし一人では、少し行くのでも何時もかかりそうだったが、目的の青墓はすぐそこだ。
今日中に着かないということはないだろう。
問題ないと言うと、まめぞうが新月刀をあたしの目の前に突きだして、自分らも行くと身振りで示した。
どうやらこの先も新月刀の力が必要と言っているようだった。
とりあえず、銭だけは収めてもらい、青墓への道行は再び同行5人ということで再出発した。
青墓の杜に入ると、外よりも空気が冷たく感じた。足を踏み入れた途端に背中の汗がひんやりとして寒気に襲われた。
森の外の陽の当たる野原が樹木を透かして見えていて、それが2度と取り戻せないいとおしいもののようで、ここに入ったことを後ろめたくさせた。
この森のどこにけちんぼ池があるのか。
相当の広さの深く暗い森の中をどうやって探せばよいか。
朽ち葉を踏む足音とぎしぎしいう土車の音だけがする森の道を同行5人が進んで行く。
いけどもいけども終わらない下り坂は、いつまでたってもその果てを明らかにしようとしなかった。
先頭のまめぞうの背中がギシギシと音をたてた。
まめぞうの緊張が高まると着ているものの中からそういう音が聞こえて来るのだ。
ゆっくりと新月刀の獅子の柄を握ると鞘を抜きはらい、両手でそれを目の高さに構えた。
左右を見るとさだきち、りすけもすでに臨戦態勢になっている。
辺りに漂う生臭さ。
暗い森をさらに黒く染める物。
そいつらは、道の先からやって来た。
地を這う者たち、忌まわしき存在。
穢土のさらに底から湧出る輩。
次々に襲いかかってくるひだるさまの群れ。
敵数のやたらな多さに、さすがの3人も膝を突くことが多くなる。
断ち切りばさみのような大爪が、彼らの逞しくも美しい筋肉を切り裂いて行く。
一筋二筋と宙に迸る彼らの鮮血に辺りが赤く染まる。
それでも、夕霧太夫には近づかせない。
その防御の意志が彼らの必死を支えている。
それを土車の上から目の当たりにして、あたしは溢れ出る涙が止まらない。
故郷の国を失って遠いこの日の元に連れてこられた彼らに帰るところなどない。
いま、守るべき唯一の存在を全霊をかけて守らんがために、新月刀の化身となって押し寄せる敵を蹴散らしている。
しかし、やつらの凶刃は最初にりすけを、次いでさだきちを餌食にしたあとまめぞうに襲いかかった。
最初の一撃で、まめぞうの腕があたしの目の前に落ちた。
手には新月刀が握られたままだ。四方を奴らが囲い、もはや最後の気力で夕霧太夫の前に立ち塞がるまめぞうの体を無数の大爪が貫き、その銀杏の大樹ような男は散ったのだった。
奴らが一斉に夕霧太夫をねめつける。
けれど、今、蘇ろうとしている夕霧太夫の邪魔立てをすることは、あたしが許さない。
きっと殲滅する。
それがあたしの因縁生起。
何が起こったのか分からなかった。
目の前が真っ暗になり、意識が飛んだ。
そして、気付いた時は光を一身に浴びながら冷たい水に浸されていた。
「伊左衛門や、送っておくれ」
それは遠いところから聞こえて来る声とは違って、確かに夕霧太夫の体を通して響く、あの美しくも優しい声だった。
あたしは夕霧太夫の腕に支えられ、水の上に浮いているのだった。
けちんぼ池。
あたしたちはそこに辿りついたのだ。
夕霧太夫とあたしはそのままゆっくりと池の真ん中へ進んで行く。
一歩進むたびに夕霧太夫の顔は元に戻ってゆく。
癒しの水。
引き攣れた皮膚は白い肌に溶け、頬に赤みが差し、目が開いて、そこに星のようなきらめきが生まれ、鼻筋は通って、牡丹のような唇から薫り高い吐息が漏れ出て来る。
喉は柔らかに、胸の谷間が生まれ、滑らかな肩をそよ風が撫でてゆく。
「夕霧太夫が道行、ご覧じ候らえ」
今こそすべての人に本当の夕霧太夫の姿を見て欲しいと強く願った。
ふと気づいた。
あたしは熱い。
左肩から右の腰にかけて熱いものを押し当てられているようだ。
恐る恐るその部分を見る。
なかった。
あたしは左半身をなくしてしまっていた。
「心配ない。すぐよくなる」
そういうと夕霧太夫は、最後の一歩を踏み出した。
業深き者を呑込む池。
池の水がその足元に渦となって押し寄せ始める。
少しずつ太夫の体が水の中に引き込まれてゆく。
それにつれあたしの体も水に浸り、遂には水中に沈んで息が出来なくなる。
太夫も水面下に落ち、水の中であたしと目があった。
「またすぐ会える」
太夫の口元がそう動いた。
あたしは少しも怖くなかった。
太夫の言葉があたしにこれ以上ない安堵を与えてくれたから。
本当に会える。
きっと夕霧太夫と次の世でも会えると思った。