「書かれた辻沢 107」

文字数 1,738文字

 ひだるさまとの遭遇は極力回避しながら船泊りに戻ってきた。

来た時のように、湿った風に廃船が揺れギシギシという音を響かせていた。

 砂地の上にあたしたちがつけた足跡がある。それがあまりにはっきりと残っているのでまったく時間が経過していないように思えて仕方なかった。

 みんな疲れていた。青墓に来ればすぐにミユウに会えてけちんぼ池に行けると思っていたのに、さんざん歩き回り、最強のひだるさまと戦った。

そして挙句の果てに振り出しに戻って来てしまった。

 あたしはミスリードの口惜しさを取り戻したくて、みんなが腰を下ろして休息をとる間、あたりの記憶の糸を必死になって読んで回っていた。

 しかし、どの記憶の糸も最初に感じたように、時間の経過のせいなのかおぼろげで具体性がまったくなかった。

言えばどれも同じ印象。もうそれはいいよという感想しか出てこないものばかりだった。

 そうしてかたっぱしから読んでいるうちに自分の記憶の糸に触れてしまった。

それは最初にここに着いた時のものだ。

その時のあたしは、心が不安と希望に半分ずつ支配されていて、まさに冒険の始まりと言った印象を持っていた。

今の絶望間際の自分からすると、それに懐かしささえ感じてしまうのだった。

やけに遠い。

霞んで見えにくいというのもあったけれど、ついこの間の自分の記憶なのに、まるでもう一人のあたしの経験のような、不思議な感覚だった。

「鬱になりそう」

 と思ってその記憶の糸から離脱した。

「大丈夫? 顔が青いよ」

 と、いつの間にかそばにいたクロエが言った。

「この森のせいだよ」

 そう言ってから、クロエが着いてすぐ青墓の毒に中ったようだったのを思い出した。

 青墓のせいでクロエは発現に苦しみ、あたしは記憶の糸に苦しんでいる。青墓はあたしたち鬼子を弄んでいるのかもしれない。

 しかし、なぜなんだろう。

こんなに存在する記憶の糸の中にけちんぼ池にたどり着いたというものが見当たらない。

記憶の糸は時空を紡いだものだから、時間軸に沿って丁寧に辿ればいつか結末にいたる。

しかし、少なくともあたしが読んだ記憶の糸たちの果ては、どれも今のあたしのように思惑い疲れ果てたものしかないのだった。

その時、これはもしかしてと嫌なことが頭に浮かび、あたしはそれを急いで打ち消した。

 クロエの手を引いて、ユウさんとまひるさん、それとアレクセイのところに戻り、ここではこれ以上の成果はないと報告した。すると、ユウさんが立ち上がり、

「まず、ミユウとコトハを探そう」

 と言った。

 けちんぼ池探しに煩っているうちにミユウがどこかに行ってしまうかもしれないのだ。

ユウさんがそう言ってくれてあたしは少しほっとした。

 ユウさんがあたしの手を取るため近づいて来かけたら、まひるさんがユウさんの手を引いて、

「お話したいことが」

 と話しかけた。

けれどユウさんはそれを制して、

「後でいいよ」

 とそっけなく答えたのだった。

みんなの中に変な沈黙の時が流れた。

ユウさんの対応が「らしく」なかったからだった。

そのへんな空気を打ち消すように、

「出発!」

 クロエが号令をした。

それでようやく、あたしたち一行は船泊りを後にして再び青墓の杜の中へと歩み出したのだった。

 あたしは右手にユウさん、左手にクロエの両手に花。

時々記憶の糸の血の味を口に感じて、落葉の辻々に佇んでは進む。

 ミユウとコトハさんを先に探すといっても、けちんぼ池のことを他所にするわけにはいかないので、ユウさんからは、

「ミユキは、これまでどおり澪標役で」

 と言われているからだった。

 あてどなく歩いていると、それまで辿ったことのない道を見つけた。

そこにも過去の記憶の糸は伸びていた。

「こっちへ行きましょう」

 もう、誰もあたしの提案に反応する人はいなかった。

返事がないのは少し辛かった。

 そこは少し下がってすぐに上る窪地を突っ切る道だった。

下草をツタが覆いつくし、その周りをコナラの木々が囲っていて、まるで円形劇場のような空間になっていた。

「鬼子神社のすり鉢みたい」

 クロエがそう言ったので、あたしもぐるりを見回してみた。そしてすぐに背筋に寒いものを感じた。

それはコナラとコナラの幹の間から、何体かのひだるさまがこっちを見下ろしてからだった。
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