「辻沢ノーツ 53」 

文字数 806文字

「すみません」

ドアの外で女性の声がした。Aさんはお留守だし。あの子の声でもない。

「いらっしゃいますか?」

「はい」

「入ってもいいですか?」

ドアを開けると、この間の晩、廊下の隅の部屋から覗いていた女性が胸に和綴じの本を抱え立っていた。

近くで見ると、あたしと同年代だというのが頷けた。

「こんばんは。ちょっとお話しが」

「何でしょうか」

人の顔をじっと見て、何か言いたそうにしてる。

「あの、中に入っていいですか?」

この家の人はどうして部屋に入るのにいちいち断ろうとするのかね。

「どうぞ」

 何か話すのかと思ったら、部屋に入って来てからずっと黙ったまま。

持って来た本を膝の上に置いて、部屋の中を見まわしてる。まるで友達の家に初めて来た時みたいに。

ここはあなたの家ですよー。

「あの、何か」

「あ、ごめんなさい。これをおかあさまがあなたにお渡ししなさいって」 

『日記』? じゃなさそう。何これ。

「ジョーロリです。おもしろいですよ」

和綴じの本をあたしに渡すと、そそくさと部屋を出て行っちゃった。

これ何の本? 読めない、題字からして。

中身はなんかお相撲さん文字みたいのが並んでて。

パンフ挟んである。

『娘義太夫の夕べ』だって。

そもそもジョーロリって何? だし。

娘義太夫とはなんぞやだし。

なるほど、女の人が文楽の人形なしでやる芸能か。

太夫っていう語り手と三味線弾く人だけの構成なんだ(By ウィキペディア)。

『くるわぶんしょう』って読むんだこの字。

で、どうしろと? 見て来いってこと? 

日程は、今晩6時。

場所は、役場近くの前園記念小ホールっと。

無料なんだ。

ミヤミユ誘ってみよう。

[クロ(ジョーロリ 行かない?)、ミヤ(行かない)]

即答だった。

一人で行ってもいいけど、こういうのあたし寝ちゃうんだよね。

中学の古典芸能鑑賞会ってイベントで、国立劇場に行って『蝉丸』(せみまる)っていう能を見たんだけど、寝た。

いびき掻いて担任の先生に頭はたかれた。
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