「辻沢日記 39」

文字数 1,985文字

 なんとか図面の清書を仕上げて床に就いたのは深夜2時すぎだった。

外では0時ごろから雨の音がずっとしていた。

寝室に行って布団にもぐり込むと、めずらしく紫子さんが、

「あの子がいたんだね」

 と話しかけてきた。

「知ってらしたんですか?」

 暗い部屋に沈黙の時間が流れる。

「いいや」

 紫子さんが息を吐くように返事をした。

「どうして?」

 またすこしの沈黙。寝てしまったのかなと思ったころ、

「赤い糸がね」

 ユウと手が離れた時、紫子さんが二人の薬指に結わえ付けた赤い糸。

あたしはあれ以来見えたことはなかったけれど、

「見えるんですか?」

 またゆったりとした時間が流れて、

「近づくとね」

 と言ってあくびを一つ。

「それって物理的な距離感なんですね」

 心はいつになく遠くにあるような気がするから。

それからすぐ紫子さんの寝息が聞こえだした。



 朝起きても雨は降り続いていた。

朝食を取って支度をしていると、外でクラクションの音がした。

玄関に出てみたら赤いスポーツカーが前の道に停まっていた。

車に乗っていたのは夜野まひるではなくユウだった。

窓ガラスを開けたので走って行って、

「なんで?」

「雨のせいで境内が水浸しでさ、今日は境内をやるって言ってたろ」

「どんな感じ?」

「くるぶしより少し上」

「そっか。それくらいならできるかも」

「言うと思った。変態」

 と言ってウインドウを閉めた。

 紫子さんが出しなにおにぎりを渡してくれた。

昨日よりも少し重たく感じて紫子さんを見ると、

「二人でお食べ」

 と微笑んだ。

あたしはお礼を言って玄関を出、赤いスポーツカーに乗り込んだ。

 四ツ辻から鬼子神社に車で行くには、昨晩夜野まひると帰った道を逆にいかねばならない。

青墓からの峠道はこっちには来ないから、バスが往来する山道を辻沢の街まで下りることになる。

「あいつのところに寄るから」

 ユウはそう言うが早いか、ものすごい勢いで車を発進させた。

この子は普通に運転ができないらしい。

細い山道なのに対向車なんて気にする風もなくカーブに突っ込んでいきタイヤを軋ませながら曲がり切り、直線は必要のないほどにスピードを出して走った。

あたしは舌をかまないように歯を食いしばり、ダッシュボードに頭をぶつけないよう助手席にしがみつき、目を思いっきり閉じた。

もうどうにでもしてくれ。

 目をつぶったままの時間が過ぎた。

車が停まってドアが開く音がして、

「着いたよ」

 ユウの声が遠くの方から聞こえた。

目を開けると、ユウは既に車を出ていて開いたドアの向こうからこちらを覗き込んでいた。

あたしは、しばし茫然としていたけれど、そこは地下駐車場らしかった。

「どこ?」

「ヤオマングランドホテル」

 そっか、夜野まひるの所に寄るんだった。あたしが車を降りると、

 きゅぴ!

 あの音。

ユウは鍵を弄びながらエレベーターに向かって早足で歩いて行く。

あたしもそれに付いて行きながら、

「会いに行くの?」

 とユウの背中に向かって言うと、

「いや、車を置きに来ただけ」

 と、振り向きもせずに返事をした。

 エレベーターをロビーで降りて、ユウが一人でフロントまで行くのを少し離れた所で見ている。

ユウはスタッフに車のキーを渡して何事か伝えるとこちらに近づいて来た。

「行くよ。バスが8時ちょうどに出るから急ごう」

 バスで帰るつもりなんだ。

ということは、来るときもバスだったの?

どれだけ早く鬼子神社を出て来たんだろう。

 あたしたちは駅前まで走った。

走りながら中学生のころを思い出した。

下校時は電車の時間がギリギリで学校からこうしてよく二人で走ったのだった。

ずいぶん時間が経ったような気がするけれど、ほんの5年かそこら前のことだったんだ。

ユウの横顔はその時とほとんど変わらない。

昔から童顔で色白で可愛かった。

違うのは髪の長さくらい。

今は短く切った髪の毛が頭の上でパサパサと上下している。

中学生の頃は肩まで伸ばしていて、さらさらと靡いていたものだった。

あたしはそのどちらもが愛おしかった。

ユウと過ごしたすべての時間が大切だった。

「峠の茶屋下」

 (ゴリゴリーン)

「峠の茶屋下まで」

 (ゴリゴリーン)

 バスの客はサバゲースタイルの人が多めだった。

日常の中にこんなに迷彩服があるのは異常な感じがした。

「今日は『スレーヤー・R』の定例なんだ」

 こんな朝っぱらからよくやるよ。

そっか、今日って日曜だったっけ。なんか浮世離れしてるのはあたしの方みたい。

「参戦しないの?」

「いや、今日は予定ない」

 と言ってユウはバスの奥の方に目をやった。

あたしもそちらを見ると、ものすごくガタイのいい迷彩服の大男が吊革の棒に顎を載せて窮屈そうに立っていた。

ユウはその大男から目が離せないようだった。

あたしはその大男のことをどこかで見たことがあるような気がした。

とても目立つのでもしかしたら前に駅周辺で見たことがあっただけかも知れないけど。
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