「書かれた辻沢 16」

文字数 1,839文字

「コミヤくんは何故、

池でなくけちんぼ池って言ってるんでしょう?」

 と鞠野先生が紫子さんに質問を投げる。

 あたしは、それはまったく真逆だと鞠野先生に言いたかった。

パジャマの少女がけちんぼ池を

池と間違えたのだと。

「夕霧一行が目指したのも、けちんぼ池でなく、元は

池だったのでは?」

 と、夕霧物語に疑いを掛ける言い方に鬼子のあたしたちまで疑われたようで少し気分が悪くなった。

それは紫子さんも一緒なのだろう、憮然とした表情で鞠野先生のことを見ている。

 しかし、鞠野先生はそんなことお構いなしで自説を展開中。

「そもそも『けちんぼ』という言葉がこなれてないですよね」

 先生が言うには「けちんぼ」は、きわめて今風で、遡れてもせいぜい明治大正くらいの新しい言葉だという。

「普通の古文辞書には『けち』さえ載ってないですし、そもそも『けちんぼう』ですし」

 たしかにそうだけども、

「そんな言葉をあの遊行上人が使ったというのもおかしい」

 夕霧物語では、遊行上人が山奥の鬼子神社に現れて、夕霧太夫たちに「けちんぼ池に行け」と言うのだった。

因みに遊行上人とは時宗の開祖一遍(ひじり)のことだ。

「そこで

です」

は、パジャマの少女が使ったと知る前から鞠野先生がアタリを付けていた言葉だったそうだ。

「これなら仏教語だし遊行上人が使ってもおかしくない。語史は置いておいても」

 その仏教語と言うのが、

「血に盆と書く血盆池です。字面からしておどろおどろし気な言葉ですが」

 おどろおどろしいはずだった。

なぜなら血盆池とは血の池地獄のことだからだ。

地獄の底にあって血で溢れ、常にぐつぐつと煮えたぎり溺れる亡者たちを地獄の牛頭どもが無限に責めさいなむ地獄。

「それじゃあ夕霧と伊左衛門は地獄に落ちたってなるじゃないですか。伊左衛門があんなに一生懸命に夕霧を守ったのは地獄に落ちるためなんかじゃないです」

 思わず強めに言ってしまった。

ミユウが望んだのはそんなことじゃないと思うから。

「夕霧と伊左衛門はけちんぼ池で浄化されたんです。そうじゃなきゃダメなんです」

 鞠野先生は、あたしのその言葉にうんうんと深く頷きながら、

「そうだね。二人は浄化された。それは間違いないことだ」

 では何で先生はそんなおかしなことを言い出すのか?

「目的地をはっきりさせるためだよ。けちんぼ池が見つからないのは存在しないからだ。でも血盆池ならどうだろう」

 鞠野先生がそう言うと、それまで黙って聞いていた紫子さんが、

「行き方がある。確実にそこにあるから」

 と言ったのだった。

 血盆池は確かにある。でもそこにはややこしい縛りがあった。

あたしが知らなかったのは、血盆池って女性しか行けないってことだった。

「あれは女性専用温泉だからね」

 とあまり見たことのない、おどけた感じで紫子さんが説明した。

「どういうことですか?」

 すると鞠野先生が言いにくそうにしながら、

「赤不浄、白不浄、黒不浄という言葉を知っているかい?」

 なんか聞いたことがあると思ったら、教養の時に選択した女性史の講義で耳にした言葉だった。

それで血盆という言葉もその時一緒に勉強したことを思い出したのだった。

ものすごく不愉快でやるかたないこの気持ちと一緒に。

 赤不浄とは女性特有の出血を、白不浄とは出産を、黒不浄とは死を禁忌とした日本の古い習俗のことだ。

特に赤不浄と白不浄とは女人不成仏(女性は仏になることができないこと)の根拠とされ、すべての女性は禁忌を犯した存在として血盆池、すなわち血の池地獄に落ちる。

講義の時、

「何それーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

 と心で叫んだと同時に、いつものどうしようもない無力感に襲われたのだった。

「土俵に女性は乗ってはいけないってのは、そのせいだ」

 全国民の半分、6千万人を拒絶する競技が国技を名乗る資格ある? っていうのはさておき、

「不浄、マジ何様!」

 なのだった。

「夕霧物語から血盆思想を消し去ろうとした時代があった」

故意に「

」を「けちんぼ」にすり替えたと鞠野先生は推測したそうだ。

 鬼子の共通意識のような夕霧物語にそんなことが出来るのか半信半疑だけれども、その気持ちはあたしには痛いほど分かった。

そんな考えをあたしたち鬼子の物語に残しておくなんて耐えられない。

「ごめんなさい。それってあたしたちなの」

 と紫子さんが申し訳なさそうに言った、

「「え?」」

 その言葉に紫子さんのことを見返したのは鞠野先生だけではなかった。
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