「辻沢ノーツ 29」

文字数 971文字

 四ツ辻12日目。

最初に参加頂いたインフォーマーの方たちのうち、最後のNさんのお話の採録が完了した。

Nさんは3年前に脳梗塞を患って、左半身と言葉が思うように行かなくなっているから、Kさんの助けを借りてのインタビュー。

他の方が2日で終わる所を4日かけての大団円。

本当にありがとうございました。そしてお疲れ様でした。

Nさんを上のお宅までお送りして戻ると、Kさんが夕食に誘って下さった。

お受けしたかったけど、最終バスまで1時間あるから、この時間に資料をまとめたかったのでお断りして一人公民館に残った。

出る時戸締まりしてねと言ってKさんは帰って行かれた。

Nさんのお話を資料にまとめて、皆さんに報告書をお渡ししたら、次のフィールドへ移動しようと思っている。

Kさんとお食事するのはこれが最後のチャンスだったかもと気が付き断ったことを少し後悔した。

 座卓にICレコーダーを置いてノートに今日の録音をスクリプティングする。

窓から涼しい風が吹き込んで来て作業が捗って助かる。爽やかな山椒の香りがするのもいいな。

そういえばこうやってあたしが書いてるこのフィールドノートも心情の吐露ってほどでもないけどそれなりの所感は入ってる。

それなら『ノート』とあたしのこのノートで『辻沢のアルゴノーツ』完成でよくない?

よくないか。

 きょうのに限らず4日間にわたる録音があるけれど、Nさんの話は特別だ。

量もそうだけど、話を追いかけるのが難しい。

お話し頂いている間、介助しているKさんの話を手で払う仕草をして、そうじゃないという意思を何度も伝えようとしていたところを見ると、もしかしたら肝心なことが抜け落ちてしまっているからかもしれない。

でも、そこに重要なことが話されてあるようで、どれも切り捨てることができない気がする。

困った。

こういう時、フジミユならどうするだろう。

そう思ったら、連絡すると言っておいてまだ一度もしてないことを思い出した。

やばい。

 窓から冷たい風が吹き込んできた。どことなく生臭いような、陰気な風。背中に悪寒が走る。

麦茶のコップの氷がカランと鳴る。

麦茶のコップ? 

さっきKさんが片付けて行ってくれたはず。

「君。そんなんじゃだめだぞ」

心臓停まるかと思った。

いつの間にか、目の前に、座ってた。

お盆を胸に抱えて、白いパーカーを着た、短髪にしたあたしが。

え? あたし?

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