「夕霧物語」もうひとりの夕霧太夫

文字数 1,603文字

 気が付いた時は、土車の夕霧太夫の横に寝かされていた。

起き上がろうとして手を突くと平行をうしなって、土車から落ちてしまった。

転げた拍子に背中を打って天を仰ぎ、その時、布をまかれた左の足が目の中に入った。

それは奇妙に短すぎて曲げたつもりもないのに膝から先が見えなかった。

足をゆすってもその先が出て来ない。

どうしたものかと思っていると、さだきちがあたしを抱えて、土車に戻してくれた。

そうしていまいちど自分の足をよく見ると、膝から下がなく、

あたしの左の足は太ももまでしか存在していないことに気が付いた。

痛みは感じない。

どうしたわけか足先に冷感があるせいで、これは本当なのか、夢でないのかとしばらくの間は気持ちが混乱した。

土車の上で夕霧太夫にもたれかかっていると、夕霧太夫の口の裂け目から声が漏れ出て来た。

ヒューヒューと音がする。

あたしにはその音が自分と同じだと笑っているように思えた。

それであたしも可笑しくなって声を上げて笑ってしまった。

それにつられるように紐を引いていた3人もこちらを振り向いて大笑いをした。

 休む間もなく、あたしたちは先に進まねばならなかった。

日が経つうち痛みで足がうずきだしたが、あたしが左足を失ったことなど夕霧太夫が負った傷に比べれば大したことはないと思って忘れることにした。

実際、不思議にそのことはあたしと同じように同行の人たちにとっても大したことではなかったようだ。

車に乗る荷物が一つ増えた、それだけだった。

それにつけても、こうして土車に乗っていると夕霧太夫の息遣いが近くに感じられて、とても安らいだ気持ちになれた。

それは阿波の鳴門屋に連れてこられてすぐの頃、緞子の布団に入って、あたしの冷え切った体をその肌で温めてくれた時の、夕霧太夫の息遣いそのものだったから。

 その後も何度も何度もひだるさまに襲われながらも、あたしたち一行は3人の大食人に助けられて街道を進んで行った。

道に迷いそうになると懐から指切りの指を出して道先を訪ねればよかった。

掌の上の夕霧太夫の指は何もしなくてもコロコロところがってあたしたちが行くべき道を示してくれたのだった。

 ようやく冬も終わり、春の陽気が里に降りてくるころ、道の先に大きなつり橋が現れた。

そして、夕霧太夫が大きく息を吸い込んだのを見て、あたしたちはようやく目的の地に辿りついたことを悟った。

それはまだ美濃の国に入りもしない奥深い山の中だったが。

 吊り橋は深い谷川に掛かっていた。対岸は切り立った崖になっていて、その向こうには樹木が鬱蒼と茂っていた。

夕霧太夫をまめぞうが抱え、あたしをりすけが抱えて、綱もきれそうな吊り橋を渡る。

眼下何尺あるのか深い渓谷で下の方に細く渓流が流れているのが見えた。

一度、さだきちが朽ちた板を踏んで、渓谷に落ちそうになったけれどなんとか無事一行は吊り橋を渡りきった。

そして森の道を進みかけたとき、まめぞうが右手をあげて一行の歩みを止めた。

道の行く手にじっと見入るまめぞうの背中が、膨らみ始めたのを見て、またぞろひだるさまが現れたのかと思ったが、そうではなかった。

女が一人、木漏れ陽を受けて純白の着物姿をきらきらと光らせながら、ゆっくりとこちらに向かって近づいて来る。

その女の姿がこんな山道に相応しくない艶やかさだったから、まめぞうも立ち止まったのだろう。

そして、近づいたその顔を見て同行のみんなが驚いた。

その女の顔は白く透き通るような肌をしていて、夕霧太夫そのままだったからだ。

焼き討ち前の儚く美しい夕霧太夫に。

 その女は、土車の上の夕霧太夫に近付くと、細く華奢な手を差し伸べて頬をそっと撫で、ふふと小さく笑い、

「おかえり、あたし」

と言って森の道を歩き去って行った。

あたしたちはしばらくの間、その後ろ姿を呆然と見送った。

我に返ってあたしたちの夕霧太夫を見ると頬に血の一筋が付いていた。

鋭い刃物で切られたあとのようだった。
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