「辻沢日記 21」

文字数 1,787文字

 その時、入口の鉄扉にノックの音がして鞠野フスキが入ってきた。あたしと畑中を見て、

「やあ、君たち」

 といつものように気軽に挨拶をした。

畑中はそれまでむき出しにしていた殺意をいったん収めた様子で、いつもの腑抜けた笑顔を鞠野フスキに向けた。

鞠野先生そいつやばいやつです。

そう言いたかったけど、それを口にしたら鞠野フスキまで襲われかねないから、ここは黙ってやりすごし鞠野フスキに何とか外に出て行ってもらおうと思った。

そんなあたしの気も知らないで、鞠野フスキはいつものように畑中と世間話をする体で隣に座った。

そして昨晩のJBリーグの話をして盛り上がった後、

「そうだ、畑中君。君が月曜に出したレポート大変よかったよ」

 言われた畑中は、記憶をたどっているかのように目をしばたたかせていたが、

「どうしたの? なにかあった?」

 と鞠野フスキに促されると、

「いえ、何も。ありがとうございます」

 畑中は照れたように下を向いた。

「ああ、とってもよかった。これはご褒美だ」

 と鞠野フスキは立ち上って畑中の頭に手を置いた。その時、あたしには畑中の頭上で何かが銀色に光った気がした。

しばらくすると上に置かれた鞠野フスキの手ごと畑中の頭が揺れ始めた。

それと同調するように畑中の全身がぶるぶると小刻みに揺れている。

畑中が顔を勢いよく上げた。その両目は眉間に引き寄せられ白目が剥き出しになっていた。

次第に体の揺れは大きな痙攣となって椅子から落ちそうなほどになってゆく。

やがて体のいたるところから紫色の炎が噴き出して、上体を勢いよくテーブルに打ち付けると、そのまま動かなくなった。

次第に畑中だった体はゲーセンで見た緑の瞳の男に変じ、紫の炎は勢いを増して男の体を焼き尽くし、最後はまったく消え失せてしまった。

テーブルの上は畑中が読んでいた『呪われたナターシャ』だけが残った。

鞠野フスキが手に持った銀色の棒をあたしに向けた。

それは、『スレーヤー・R』で対蛭人間武器として定番の水平リーベ棒だった。

「先生どうして?」

「本物の畑中くんはまったくレポートを出さない困った人でね。そもそも彼とは下で別れたばかりだし」

「じゃあ、こいつは?」

「おそらく使い魔だろう。さっき畑中君がゼミ室で居眠りしてたら首を何かに刺されたって言ってたんだ」

 鞠野フスキは、片手を挙げて首の後ろを撫で始めた。

「彼らは、血を吸った者に擬態することができるのかもしれない」



 鞠野フスキに昨晩の青墓での出来事を一通り話した。

夜野まひるのことは除いて。

「そうか。そんなことがあったのか」

 鞠野フスキは自分の研究机に寄りかかり腕組みをしながらそう言った。

「いったいあれは何者なんでしょう? 宮木野の流れかなんかですか?」

「そうじゃないと思うよ」

 鞠野フスキはそういうと机の引き出し側に移動し、ポケットから鍵を出して一番上の引き出しを開けた。

中から原稿用紙の束を取り出すと、

「これを読むといい」

 といってあたしに手渡した。

手に取ってみるとそれは50枚くらいの原稿用紙で、黄ばんだ表紙にはこう書いてあった。

『辻沢のアルゴノーツ』

200×年記。筆者は四宮浩太郎だった。

「四宮が亡くなる前に、紀要に載せてくれって送ってきたものだよ」

 四宮浩太郎の著作で「辻沢ノート」以外のものがあるなんて知らなかった。

でも、本学の紀要に載っているのなら図書館の検索に一番に引っかかるはずで見逃すはずがない。

「そう、断った。内容をみればわかると思うが、そんなファンタジーを大学紀要に乗せたら世界中の笑いものだ」

 鞠野フスキのセリフとも思えない権威主義的な言い方に戸惑っていると、鞠野フスキがいたずらっぽい笑顔をこちらに向けて、

「20年前だ。当時大学院生だった僕にそんな権限はなかったよ」

 そう言うと、こんどはぐっと渋い表情に変わって、

「紀要選考委員に提出しなかったんだ。それは偽りのない辻沢の調査報告だ。よくぞここまで調べ上げたと友人として誇らしかった。しかし、書いてある内容があまりに露骨すぎて、これはインフォーマーに対する背信行為と判断した。だから握りつぶしたんだ」

 と言った。

「読んでもいいんですか?」

 そんなものをあたし個人が目にしていいとは思えなかった。

しかし、鞠野フスキからは意外にも、

「おそらく、君以外に読むべき人は見当たらないよ。コミヤくん」

という返事が返ってきた。
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