「書かれた辻沢 48」
文字数 3,177文字
T山郷は斜面ばかりかと思ったら中心地は普通の田舎町だった。
実際『T山物語』の登場人物たちも、町の中に記憶の糸を残していたのであたしは、ほとんどの時間を街中で過ごしことになった。
初めの一週間は町の辻々に立ってひたすら記憶の糸をたぐる日々を過ごしたのだ。
そうして読んだ記憶の糸を、民宿に帰ってから国土地理院の2万5000分の一の地形図を拡大コピーしたものにプロットする。
誰に見せるつもりもなかったけれど、それがとても楽しかった。
養母はそんなあたしを不思議そうに見ていたけれど、これまでどおり何も口出しすることなく静かに見守ってくれていた。
ところがさすがに一週間ずっと街中にいると採取できるトピックスも限られてきた。
それでようやく斜面の多い郊外に足をのばしてみることにした。
週開けの朝、斜面の道を歩いているといきなり気になる糸に出くわした。
その人の記憶の糸は、あたしのように外からやって来てあるお婆さんの家を訪問し、しばらくするとまた戻って行くというのを数年の間くりかえしていた。
最後にはお婆さんがその家からいなくなってしまい、それに連れてその人の糸も消えてしまうのだが。
初めは自分の祖母を見舞いにきている孫なのかと思った。
でもそうではなかった。
訪問するときは必ず野帳と筆記用具、記録するカメラやICレコーダーを携え、そのお婆さんから思い出を聞き出していたからだ。
インタビューをしていたのだ。
それに加え、あたしと同じくらいの年齢の男子だったので気になってしまって『T山物語』そっちのけで、その男子の記憶の糸ばかり追いかけるようになった。
そのお婆さんの家は斜面に引っかかるように建っていた。
主がいなくなった家は、何年も放置されていたせいで廃屋になっていて、屋根が落ちそうな危ない感じがしていたので、あたしはそこをお化け屋敷と名前を付けた。
失礼とは思ったが、実際近所の方もそう呼んでいたし。
そういうわけで他に立ち寄る人もなく、終始放心状態で読み込むあたしにとっては好都合だったわけだ。
あたしはそこを毎朝早く訪れては、暗くなるまで一日中その男子のことを眺めて過ごした。
その男子は、お婆さんが名前を呼んでいたのでわかったのだが、ユウイチという名前だった。
あたしは朝に目が覚めると朝食を早々に済ませて、お化け屋敷に直行する。
そして、そのほの暗い居間にある沢山の記憶の糸の中からユウイチのものだけを縒り出し終わると、一日中ユウイチの作業を細かく読み取っていった。
そこで見えるユウイチの調査はあたしのとは違っていた。
もちろんあたしの読むのとユウイチの聞くとの違いはある。
それだけではなく、ユウイチの調査は何かのルールに従って一つ一つ積み重ねるような慎重さがあったのだ。
今ならそれが「質的研究手法」を勉強して臨んだものだと分かるが、当時のあたしにはどこか遠くの世界の調査方法のように感じたのだった。
あたしは、ユウイチの記憶の糸を辿りながら、助手のような気分でインタビューを見守っていた。
「そっちの糸で、同じ事聞いてた」
とか、
「大切な話が聞けたね」
とか。
聞こえもしない記憶の糸の中のユウイチに話しかけながら。
あたしはずっと一人ぼっちだった。大勢の人の記憶の糸を読みながら、いつも孤独を感じていた。
それは断崖の向こう側にいる人たちを反対側から見ているような感覚だった。
寂しかった。でもユウイチは違った。少なくともこっち側の人だった。
それはヴァーチャルな関係だったけれども、あたしにとっては初めて出会うフィールドワーク仲間だったのだ。
それがとても嬉しくて、ユウイチの側に居続けた。
そして楽しかった夏の遠征調査も明日で終わりという日になった。
後半はユウイチのインタビューの様子ばかり読んでいたけれど、あたしにとっては共同作業をしている感覚だったので、とても充実した日々だった。
あたしはお化け屋敷の居間で、今日で最後なんだと思いつつ、少し感傷的な気分でユウイチのインタビューを読んでいた。
しばらく集中して読んでいて、いつものようにあたしが、
「その質問はデリカシーなさすぎ」
と合いの手を入れたとき、
「ごめんなさい」
とユウイチが謝ってきた。
糸の中の人が返事などすることないはずだが、その時の返事はとても自然だった。
それであたしもつい、
「気をつけなきゃ」
と言ってユウイチの顔を見て、そこでびっくりした。
ユウイチが座っていた場所に、いつの間にか中年のひげ面のおじさんがいて、こっちを見ていたからだ。
あたしは混乱してしまって最初動けずにいたけれど、誰もいないはずのお化け屋敷で変なおじさんと二人きりな状況に、これはまずいと思って身構えた。
すると、そのひげのおじさんは、
「ごめんなさい」
とまた謝って慌ててあたしから距離を取り、
「驚かす気はなかったんだ」
と言ったのだった。
冷や汗が背中を伝って行く。
「どうしてこんなところに?」
と聞くと、それは君もなんだけどねえと小声で言ったあと、
「民宿でこの家を訪ねて来てる子がいるって聞いてさ」
最初からそうだったわけではなかったが、今ではそう言われても仕方がない気はした。
そして、そのおじさんは、
「君はこの家の記憶が読めるんだね」
とさらにビックリするようなことを言ったのだった。
さすがにその言葉はあたしをうろたえさせた。
これまで記憶の糸を読めることを誰にも言ってこなかった。
それは養父母でさえそうで、言えば一緒にいられなくなると思っていた。
それを見ず知らずのおじさんに言い当てられた。
あたしの警戒心はMAXになった。
このおじさんの側にいてはいけないと思って、お化け屋敷の中を這いずりながら出口に向かった。
立って逃げたかったが足がいうことを利かなかった。
ところが、おじさんは居間で動かずにいて、別の部屋に移動したあたしに向かって、
「心配することはないよ。僕も読めるというわけではないから」
と言ったのだった。
心配してるのそこじゃないとは思ったが、おじさんがあたしの気持ちを推し量ろうとしているのだけは分かった。
「なんで分かるんですか? あたしが読めるって」
「君が読んでるのが、僕の記憶だからだよ」
僕の記憶って……。
あたしは、逃げるのを止めて、もう一度居間の戸口までずって行き、部屋の奥の窓縁に腰掛けたおじさんの顔を見た。
そのおじさんの顔は目が落ちくぼみ少し髪の毛も危なっかしくなってはいるが、確かにあたしのフィールドワーカー仲間、ユウイチだった。
「ユウイチ?」
そしておじさんは、あたしに向かって、
「はい。鞠野ユウイチと言います」
と自己紹介をした。そして、
「あの時、側にいてくれた幽霊は君だったんだね」
とさらにさらにビックリするようなことを言ったのだった。
「初めてのインタビューだったんだ。心細かった。でもずっと僕の側で女の子の幽霊が励まし続けてくれたおかげで続けられた」
ユウイチは、あたしと同じようにあたしのことをバディーだと思ってくれていた。
幽霊扱いは心外だけど。
あたしはこみ上げるものを感じた。嬉しかった。
記憶の糸を、一方通行の孤独な作業だと思ってずっと読んできた。
あたしがその人のことを深く知っても、その人には決して伝わらない。
例え親しみを感じてもそれはあたしの独りよがりだった。
でもユウイチは違った。ユウイチはそばで読むあたしを感じてくれていた。
ユウイチは糸を紡ぐ人であたしはそれを読む人だ。
いわば書く人と読む人とが想いを交わし、紡ぐ糸になんらかの影響を及ばす。
まるでインタラクティブに作者と読者がやりとりして出来て行くWEB小説の世界みたいだと思った。
今では鞠野先生とそういうやりとりをすることは少なくなった。
でもユウイチである以上、鞠野先生は今でもあたしのバディーなのだ。
実際『T山物語』の登場人物たちも、町の中に記憶の糸を残していたのであたしは、ほとんどの時間を街中で過ごしことになった。
初めの一週間は町の辻々に立ってひたすら記憶の糸をたぐる日々を過ごしたのだ。
そうして読んだ記憶の糸を、民宿に帰ってから国土地理院の2万5000分の一の地形図を拡大コピーしたものにプロットする。
誰に見せるつもりもなかったけれど、それがとても楽しかった。
養母はそんなあたしを不思議そうに見ていたけれど、これまでどおり何も口出しすることなく静かに見守ってくれていた。
ところがさすがに一週間ずっと街中にいると採取できるトピックスも限られてきた。
それでようやく斜面の多い郊外に足をのばしてみることにした。
週開けの朝、斜面の道を歩いているといきなり気になる糸に出くわした。
その人の記憶の糸は、あたしのように外からやって来てあるお婆さんの家を訪問し、しばらくするとまた戻って行くというのを数年の間くりかえしていた。
最後にはお婆さんがその家からいなくなってしまい、それに連れてその人の糸も消えてしまうのだが。
初めは自分の祖母を見舞いにきている孫なのかと思った。
でもそうではなかった。
訪問するときは必ず野帳と筆記用具、記録するカメラやICレコーダーを携え、そのお婆さんから思い出を聞き出していたからだ。
インタビューをしていたのだ。
それに加え、あたしと同じくらいの年齢の男子だったので気になってしまって『T山物語』そっちのけで、その男子の記憶の糸ばかり追いかけるようになった。
そのお婆さんの家は斜面に引っかかるように建っていた。
主がいなくなった家は、何年も放置されていたせいで廃屋になっていて、屋根が落ちそうな危ない感じがしていたので、あたしはそこをお化け屋敷と名前を付けた。
失礼とは思ったが、実際近所の方もそう呼んでいたし。
そういうわけで他に立ち寄る人もなく、終始放心状態で読み込むあたしにとっては好都合だったわけだ。
あたしはそこを毎朝早く訪れては、暗くなるまで一日中その男子のことを眺めて過ごした。
その男子は、お婆さんが名前を呼んでいたのでわかったのだが、ユウイチという名前だった。
あたしは朝に目が覚めると朝食を早々に済ませて、お化け屋敷に直行する。
そして、そのほの暗い居間にある沢山の記憶の糸の中からユウイチのものだけを縒り出し終わると、一日中ユウイチの作業を細かく読み取っていった。
そこで見えるユウイチの調査はあたしのとは違っていた。
もちろんあたしの読むのとユウイチの聞くとの違いはある。
それだけではなく、ユウイチの調査は何かのルールに従って一つ一つ積み重ねるような慎重さがあったのだ。
今ならそれが「質的研究手法」を勉強して臨んだものだと分かるが、当時のあたしにはどこか遠くの世界の調査方法のように感じたのだった。
あたしは、ユウイチの記憶の糸を辿りながら、助手のような気分でインタビューを見守っていた。
「そっちの糸で、同じ事聞いてた」
とか、
「大切な話が聞けたね」
とか。
聞こえもしない記憶の糸の中のユウイチに話しかけながら。
あたしはずっと一人ぼっちだった。大勢の人の記憶の糸を読みながら、いつも孤独を感じていた。
それは断崖の向こう側にいる人たちを反対側から見ているような感覚だった。
寂しかった。でもユウイチは違った。少なくともこっち側の人だった。
それはヴァーチャルな関係だったけれども、あたしにとっては初めて出会うフィールドワーク仲間だったのだ。
それがとても嬉しくて、ユウイチの側に居続けた。
そして楽しかった夏の遠征調査も明日で終わりという日になった。
後半はユウイチのインタビューの様子ばかり読んでいたけれど、あたしにとっては共同作業をしている感覚だったので、とても充実した日々だった。
あたしはお化け屋敷の居間で、今日で最後なんだと思いつつ、少し感傷的な気分でユウイチのインタビューを読んでいた。
しばらく集中して読んでいて、いつものようにあたしが、
「その質問はデリカシーなさすぎ」
と合いの手を入れたとき、
「ごめんなさい」
とユウイチが謝ってきた。
糸の中の人が返事などすることないはずだが、その時の返事はとても自然だった。
それであたしもつい、
「気をつけなきゃ」
と言ってユウイチの顔を見て、そこでびっくりした。
ユウイチが座っていた場所に、いつの間にか中年のひげ面のおじさんがいて、こっちを見ていたからだ。
あたしは混乱してしまって最初動けずにいたけれど、誰もいないはずのお化け屋敷で変なおじさんと二人きりな状況に、これはまずいと思って身構えた。
すると、そのひげのおじさんは、
「ごめんなさい」
とまた謝って慌ててあたしから距離を取り、
「驚かす気はなかったんだ」
と言ったのだった。
冷や汗が背中を伝って行く。
「どうしてこんなところに?」
と聞くと、それは君もなんだけどねえと小声で言ったあと、
「民宿でこの家を訪ねて来てる子がいるって聞いてさ」
最初からそうだったわけではなかったが、今ではそう言われても仕方がない気はした。
そして、そのおじさんは、
「君はこの家の記憶が読めるんだね」
とさらにビックリするようなことを言ったのだった。
さすがにその言葉はあたしをうろたえさせた。
これまで記憶の糸を読めることを誰にも言ってこなかった。
それは養父母でさえそうで、言えば一緒にいられなくなると思っていた。
それを見ず知らずのおじさんに言い当てられた。
あたしの警戒心はMAXになった。
このおじさんの側にいてはいけないと思って、お化け屋敷の中を這いずりながら出口に向かった。
立って逃げたかったが足がいうことを利かなかった。
ところが、おじさんは居間で動かずにいて、別の部屋に移動したあたしに向かって、
「心配することはないよ。僕も読めるというわけではないから」
と言ったのだった。
心配してるのそこじゃないとは思ったが、おじさんがあたしの気持ちを推し量ろうとしているのだけは分かった。
「なんで分かるんですか? あたしが読めるって」
「君が読んでるのが、僕の記憶だからだよ」
僕の記憶って……。
あたしは、逃げるのを止めて、もう一度居間の戸口までずって行き、部屋の奥の窓縁に腰掛けたおじさんの顔を見た。
そのおじさんの顔は目が落ちくぼみ少し髪の毛も危なっかしくなってはいるが、確かにあたしのフィールドワーカー仲間、ユウイチだった。
「ユウイチ?」
そしておじさんは、あたしに向かって、
「はい。鞠野ユウイチと言います」
と自己紹介をした。そして、
「あの時、側にいてくれた幽霊は君だったんだね」
とさらにさらにビックリするようなことを言ったのだった。
「初めてのインタビューだったんだ。心細かった。でもずっと僕の側で女の子の幽霊が励まし続けてくれたおかげで続けられた」
ユウイチは、あたしと同じようにあたしのことをバディーだと思ってくれていた。
幽霊扱いは心外だけど。
あたしはこみ上げるものを感じた。嬉しかった。
記憶の糸を、一方通行の孤独な作業だと思ってずっと読んできた。
あたしがその人のことを深く知っても、その人には決して伝わらない。
例え親しみを感じてもそれはあたしの独りよがりだった。
でもユウイチは違った。ユウイチはそばで読むあたしを感じてくれていた。
ユウイチは糸を紡ぐ人であたしはそれを読む人だ。
いわば書く人と読む人とが想いを交わし、紡ぐ糸になんらかの影響を及ばす。
まるでインタラクティブに作者と読者がやりとりして出来て行くWEB小説の世界みたいだと思った。
今では鞠野先生とそういうやりとりをすることは少なくなった。
でもユウイチである以上、鞠野先生は今でもあたしのバディーなのだ。