「辻沢日記 30」

文字数 1,638文字

 あたしがユウの手を引いて公園の修羅場から逃げのび、オトナに保護された後も、あたしの手はユウの手をつかんだままだった。

自分の意志では外せないし、大勢で無理やり外そうとしてもまったくダメだった。

血に染まった服を脱がされ、お風呂で体を洗ってもらい、着替えをした。

その間もずっと繋がったままの手が自分のものでない不思議な生き物のようで気味が悪かった。

 それからユウとあたしはオトナの屋敷で二人三腕の生活を送ることになった。

二人三脚の繋がれた一脚は足として機能するけれど、二人三腕の一腕は掌がふさがっているのでまったく厄介なものだった。

最初に苦労したのは食事だった。あたしが右手でユウの左手を掴んでいたから、お互いの利き腕が殺されてしまっていて箸がうまく使えない。

椀をつかむ手がないからどうしても犬食いになる。

食べ終わってもテーブルを汚して半分も腹に入っていないような状態だった。

10日くらいたったころオトナがようやくそれに気づいたらしく、食べ易いように肉や魚は最初から細かく切り刻んでご飯や麺類の上に乗っけて出すようになった。

それでようやく食事を克服することができた。

 それ以外はユウとあたしの工夫だけでなんとかした。

トイレは一人が片手だけ中に入れてドアの外で待っていれば良いことに気が付いた。

お風呂は向き合ってお互いの背中を洗いあったし、髪は順番で片方が洗っている時は開いてる方の手で、かゆいとこありませんかー式に手伝ってあげた。

ただ、着るものはどうしても特殊で、拘束服、左利き用、右利き用のような襟から裾まで開いたものを用意してもらっていて、それを着るたびに自分たちが普通でないことを思い知らされた。

 普通でないことがもう一つあった。

それはオトナが全然口を利かないこと。

何人かお世話する人がいたが、ユウとあたしとは言葉を交わさないというのがルールらしかった。

だからオトナからの連絡や命令は全て紙に短いメモという形だった。

その後もずっと、今に至るまで。

 そんな生活が半年続いたある日の朝、食卓に置かれたメモにこうあった。

「14:00 外出」

 初めその言葉が何を意味するのかが頭に浮かんでこなかった。

自分たちがこの無暗に静かな家から出られる日が来るとは思っていなかったから。

 玄関に出ると異様に広い三和土に、真新しい靴が一足ずつ用意されてあった。

あの時のとは別の明るい空色とピンクの運動靴で、明るい空色の靴をユウが、ピンクのをあたしが履いた。

ユウとあたしとが靴を履き終わると、オトナが巨人のためのような大きな玄関扉を開けた。

半年ぶりの外光は目にいたかった。

目が慣れると、キラキラ光る緑の芝生の中を白いスロープが緩やかなカーブを描いて延びているのが見えた。

夏のはずなのにどこか秋めいて高い空の下、そのスロープを歩いて下るとガレージで、大きな黒いミニバンが停めてあった。

ユウとあたしが硬くて大きすぎる後部座席のシートに座ると、連れて出てきたオトナがあたしたちにシートベルトを掛けてドアを閉めた。

車内は暗く光が閉ざされたように感じて不安になってしまい、

「どこへ行くの?」

 と誰にでもなしに言った。

すると最初から助手席にいたオトナが、

「鬼子神社よ」

 と言った。

オトナがユウとあたしに口をきいたことにびっくりして二人して顔を見合わせて、そして笑った。

久しぶりに大笑いして、あたしはもう少しで過呼吸になるところだった。

 びっくりはそれだけで終わらなかった。

そのオトナはその後もユウとあたしに何やかやと話しかけてきた。

「名前はなんていうの?」とか、「どこから来たの?」とか。

しまいには「どうして手が離れないの?」なんてユウとあたしには絶対答えられないことまで質問してきた。

これまでのオトナとの違いに、ユウとあたしは最初のうちは面白がっていたけれど、それが続くと二人とも黙ってしまった。

何かが始まったらしいことが分かったから。

そして、それがいいことなのか悪いことなのかがまったく分からなかったから。
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