「書かれた辻沢 28」
文字数 2,046文字
【注意】今回とても残酷な描写がありますのでご注意ください。残酷なのダメな方、読んだことが後を引く方は読み飛ばしていただきますようお願いします。
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天井の乳白色の水辺に佇む母宮木野は、屍人のようでなく生気があった。
ただ、その髪は乱れ帯は解けて地面に垂れ、着物の前ははだけたままになっていた。
そして、その胸にまだ臍の緒が付いた赤子を抱いていて、涙を流しておろおろしていたのだった。
見ていると母宮木野は赤子の小さな頭を撫でてから何度も頬ずりをした。
その赤子が大きく口を開いて泣きだした。
その口に白いものが見えた。牙だった。
乳犬歯にはっきりと牙が見て取れた。
その赤子は鬼子だったのだ。
母宮木野は赤子が泣き止むのを待っているようだった。
しかし揺すれどあやせども赤子は泣き止まない。
ついに諦めたか、母宮木野は歩み出すと、赤子を胸に抱いたまま乳白色の水の中に入っていった。
臍の深さまで来てそこで立ち止まる。
そして赤子を強く抱きしめると、その場に腰を下ろし首まで水につかったのだった。
赤子の泣き声が消えた。うっすらと水面に赤子の頭が透けて見える。
しばらくして乳白色の水面に赤い輪が浮いてきた。
そして次第にその赤は天井の水溜まりに広がって、いつか全体を血の色に染めたのだった。
永遠のような時間が過ぎた。
母宮木野が立ち上がったが、そのはだけた胸に赤子の姿はなかった。
ゆっくりと水から出た母宮木野は、後ろを振り返らずそこから立ち去ったのだった。
鬼子は親を食い殺す。
だから手元に留めることは許されない。
辻に捨てるか縊り殺すか、母親はその選択を迫られた。
あたしは慄いた。
かたや死してなお我が子に乳を与えた慈母なる宮木野。
かたや我が子を縊り殺す鬼畜たる宮木野。
同じ母にまったく相反するものが同居していたからだ。
あたしは真っ赤に染まった天上の水溜まりを見上げ、膝から崩れ落ちて立てそうになかった。
今、目にしたことが鬼子の宿命だからこそ、あたしにはそれを人ごととは思えなかったのだ。
あたしは死なずに済んで今生きている。
でも本当の親を知らない。
ミユウもそうだった。クロエも、ユウさんもそうだ。
鬼子は皆親の顔を知らない。
気付いた時には他人の手の中だ。
その間に何があったか。
幸いあたしたちは施設に保護された。
あたしが知らないだけで、もしかしたら今見た赤子のように親の手で殺された子もいたかも知れない。
鬼子は生まれることもゆるされない。
それが今も、世界のどこかで繰り返されているとしたら。
そう思うと涙が止まらなくなった。
今、目の前で沈められた赤子のために、生きられなかった鬼子たちのために涙を流した。
「また直ぐ会える」
あたしの目の前に赤く染まった糸が垂れていた。
それは天井の血溜まりから降りて来ていた。
あたしは恐る恐るその糸に薬指を当てて読んでみた。
それは今沈められた赤子の記憶の糸だった。
そしてその赤子は夕霧だと知れた。
その糸口から先には夕霧太夫の物語が紡がれてあった。
「鬼子は沈まない。また浮き上がって濁世を鬼子として生きる」
夕霧が伊左衛門に言っていた。
そうだ、鬼子はしたたかに生きる。
何度沈められてもその度に浮き上がって生き続けるのが鬼子なのだ。
「ミユウに会いに行かなきゃだった」
こんなところで押しつぶされてる場合じゃない。
あたしにはやることがある。
あたしは再びたちあがると出口に向かったのだった。
そういえば、宮木野と志野婦の記憶の糸はどうしたろう。
ここを出て行った二人の後に出来ていたはずだけど。
あたしは苔むした横坑を二人の記憶の糸を探しつつくぐり出た。
塚の外は来たときと変わっていなかった。
澄んだ空気と緑の苔むした塚。
頭上には落ち葉の海が垂れ込め、そこに山椒の古木が枝を伸ばしていた。
あたしは辺りを見回して宮木野と志野婦の記憶の糸を探した。
しかし、それらしいものは見当たらない。
「やっぱりヴァンパイアのは見えないのかな」
この場所だから見えたのだろう。それだけここは特別な場所なのだ。
そろそろ、ここからさようならしなければ。
クロエのことが心配だし、サキも待ってるだろうし。
あの子、上で腰抜かしてないかな。
スマフォを出してみる。電源切れてるし。
「で、どうやって帰るの?」
あたしは、その場でジャンプしてみた。
なんとなく体が浮き上がって、来たときのように泳げるんじゃないかと思って。
「ダメじゃん」
全然ダメだった。
ここは窪地の底。山で言えば沢だ。
ならば斜面を上がればいずれは尾根に戻れるはず。
目をこらして周囲を見渡したけれど、斜面がない。
塚に登り見回したが視界の限りが平坦な地面だった。
ここは無限の平地にそこだけぽつんとある小塚だったのだ。
「なんか無理っぽい」
あたしは途方に暮れて、塚に生える山椒の古木を見上げたのだった。
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天井の乳白色の水辺に佇む母宮木野は、屍人のようでなく生気があった。
ただ、その髪は乱れ帯は解けて地面に垂れ、着物の前ははだけたままになっていた。
そして、その胸にまだ臍の緒が付いた赤子を抱いていて、涙を流しておろおろしていたのだった。
見ていると母宮木野は赤子の小さな頭を撫でてから何度も頬ずりをした。
その赤子が大きく口を開いて泣きだした。
その口に白いものが見えた。牙だった。
乳犬歯にはっきりと牙が見て取れた。
その赤子は鬼子だったのだ。
母宮木野は赤子が泣き止むのを待っているようだった。
しかし揺すれどあやせども赤子は泣き止まない。
ついに諦めたか、母宮木野は歩み出すと、赤子を胸に抱いたまま乳白色の水の中に入っていった。
臍の深さまで来てそこで立ち止まる。
そして赤子を強く抱きしめると、その場に腰を下ろし首まで水につかったのだった。
赤子の泣き声が消えた。うっすらと水面に赤子の頭が透けて見える。
しばらくして乳白色の水面に赤い輪が浮いてきた。
そして次第にその赤は天井の水溜まりに広がって、いつか全体を血の色に染めたのだった。
永遠のような時間が過ぎた。
母宮木野が立ち上がったが、そのはだけた胸に赤子の姿はなかった。
ゆっくりと水から出た母宮木野は、後ろを振り返らずそこから立ち去ったのだった。
鬼子は親を食い殺す。
だから手元に留めることは許されない。
辻に捨てるか縊り殺すか、母親はその選択を迫られた。
あたしは慄いた。
かたや死してなお我が子に乳を与えた慈母なる宮木野。
かたや我が子を縊り殺す鬼畜たる宮木野。
同じ母にまったく相反するものが同居していたからだ。
あたしは真っ赤に染まった天上の水溜まりを見上げ、膝から崩れ落ちて立てそうになかった。
今、目にしたことが鬼子の宿命だからこそ、あたしにはそれを人ごととは思えなかったのだ。
あたしは死なずに済んで今生きている。
でも本当の親を知らない。
ミユウもそうだった。クロエも、ユウさんもそうだ。
鬼子は皆親の顔を知らない。
気付いた時には他人の手の中だ。
その間に何があったか。
幸いあたしたちは施設に保護された。
あたしが知らないだけで、もしかしたら今見た赤子のように親の手で殺された子もいたかも知れない。
鬼子は生まれることもゆるされない。
それが今も、世界のどこかで繰り返されているとしたら。
そう思うと涙が止まらなくなった。
今、目の前で沈められた赤子のために、生きられなかった鬼子たちのために涙を流した。
「また直ぐ会える」
あたしの目の前に赤く染まった糸が垂れていた。
それは天井の血溜まりから降りて来ていた。
あたしは恐る恐るその糸に薬指を当てて読んでみた。
それは今沈められた赤子の記憶の糸だった。
そしてその赤子は夕霧だと知れた。
その糸口から先には夕霧太夫の物語が紡がれてあった。
「鬼子は沈まない。また浮き上がって濁世を鬼子として生きる」
夕霧が伊左衛門に言っていた。
そうだ、鬼子はしたたかに生きる。
何度沈められてもその度に浮き上がって生き続けるのが鬼子なのだ。
「ミユウに会いに行かなきゃだった」
こんなところで押しつぶされてる場合じゃない。
あたしにはやることがある。
あたしは再びたちあがると出口に向かったのだった。
そういえば、宮木野と志野婦の記憶の糸はどうしたろう。
ここを出て行った二人の後に出来ていたはずだけど。
あたしは苔むした横坑を二人の記憶の糸を探しつつくぐり出た。
塚の外は来たときと変わっていなかった。
澄んだ空気と緑の苔むした塚。
頭上には落ち葉の海が垂れ込め、そこに山椒の古木が枝を伸ばしていた。
あたしは辺りを見回して宮木野と志野婦の記憶の糸を探した。
しかし、それらしいものは見当たらない。
「やっぱりヴァンパイアのは見えないのかな」
この場所だから見えたのだろう。それだけここは特別な場所なのだ。
そろそろ、ここからさようならしなければ。
クロエのことが心配だし、サキも待ってるだろうし。
あの子、上で腰抜かしてないかな。
スマフォを出してみる。電源切れてるし。
「で、どうやって帰るの?」
あたしは、その場でジャンプしてみた。
なんとなく体が浮き上がって、来たときのように泳げるんじゃないかと思って。
「ダメじゃん」
全然ダメだった。
ここは窪地の底。山で言えば沢だ。
ならば斜面を上がればいずれは尾根に戻れるはず。
目をこらして周囲を見渡したけれど、斜面がない。
塚に登り見回したが視界の限りが平坦な地面だった。
ここは無限の平地にそこだけぽつんとある小塚だったのだ。
「なんか無理っぽい」
あたしは途方に暮れて、塚に生える山椒の古木を見上げたのだった。