「書かれた辻沢 127」

文字数 2,521文字

 まひるさんは元けちんぼ池の水際まで歩いてゆくと、

「その声はブルー・ポンドから聞こえているのですね」

 と言った。ミユウはたしかにそちらに向けて耳をそばだてていた。

「はい」

「向こう岸の森ではなく」

「そうです」

 その返事を聞いて、まひるさんは一つ頷くと、

「でも、湖面には誰もいません」

 と言って右手で湖面を大きく撫ぜた。完全に凪いで鏡のようなアクアマリンが広がっている。

「夕霧物語の最後を思い出してください」

 けちんぼ池に浸かって癒されたあと、夕霧と伊左衛門の二人は抱き合って、

「水底に沈みます」

 とあたしが答えるとクロエが、

「水の中だ!」

 と叫んで立ち上がった。

 するとアレクセイが、

「水の中に誰かいるのか?」

 と聞いた。

 まひるさんはそれにはほほ笑みだけ返して、

「夕霧の言葉を思い出してください」

 物語の夕霧はずっと体が爛れて動かずほとんど会話をしない。

だから余計にその言葉の印象が強く残っている。

「またすぐ会える」

 ユウさんが答えた。

 最後に死にゆく伊左衛門の不安を拭うように言った。

「それは何故でしょうか?」

 しばらくみんなで考えていたがミユウが、

「沈んでも浮かぶから」

 と答えた。

 そのセリフは辻沢の宿屋で月明かりの下、夕霧が伊左衛門に鬼子の宿世を語った時のものだった。

「それが答えです。さあ、みなさん用意はいいですか?」

 そう言うと、まひるさんはこちらにおいでおいでをしながら水の中に入って行った。

「まひるさん、どういうことでしょう?」

 あたしは理解が届かず、首まで湖面に浸かったまひるさんに聞いた。

「本当に伊左衛門は死んだのでしょうか?」

 あたしが伊左衛門のことを死亡前提でいることを言っているようだった。

「半身が無くなっても生きていた?」

「そうです。あれがミユキ様のような意味での半身だったとしたら?」

 あたしは半身をミユウにすり替わられたけれども生きている。

「じゃあ、伊左衛門は生きている?」

「はい。おそらく夕霧も」

 みんなが元けちんぼ池に入ってまひるさんを囲った。

「行きますよ。たくさん息を溜めてくださいね」

「潜ってまた浮いてくればいいのか?」

 アレクセイが聞いた。

「いいえ、潜り続けてください」

 水面からまひるさんの姿が消えた。

慌てて潜ると、アクアマリンの中をまひるさんが泳ぎ去る姿が見えた。

 あたしはもう一度水面に顔を出して思いっきり深呼吸してから、ガラスのような透明度の中にダイブした。

まひるさんは後ろを振り返ることなくどんどん深みへ向かって潜ってゆく。

あたしの隣にはクロエ、その少し先をユウさんとミユウ。アレクセイも続く。
 

カチカチと水圧が鼓膜を叩く音がする。

だんだんと光が届かなくなってあたりが暗くなってゆく。

息が苦しい。手先もしびれてきた。クロエも苦しそうな表情をしている。

もう後戻りできないほど深く潜ってしまったから先に進むしかない。

でも、そろそろ限界かもしれない。

そう思った時、まひるさんが泳ぐのを止めて後ろを振り向いた。

そして、さらなる深みを指さしている。

そちらに目を向けると、小さな光の点が見えていた。

あそこが出口ですか? あそこまで泳げば息ができる?

と伝えたくてまひるさんを見ると、まひるさんは手を耳に充てる仕草をしていた。

なにか聞こえるのかもしれない。水の中で?

あたしは耳をそばだてた。すると、

「わがちをふふめおにこらや」

 確かに聞こえていた。それはあの光のほうからだった。
 
潜らなきゃ。もっともっと潜らなきゃ。

そう思うけれど手足に力が入らない。目の前に霞がかかったよう。

ついには潜っているのか上がっているのか分からなくなった。

おしまいだ。あたしは溺れるんだ。

苦しい。わたつみ様助けて。潮の匂いが鼻を衝く。あの時の記憶がよみがえる。

待って、あたしは溺れたことなんかない。これは伊左衛門の記憶?

誰かがあたしの首根っこを引っ張った。

その力であたしは勢いよく水から引き上げられた。

あろうことか、あたしは水面に浮きあがってしまったのだった。

みんなは? 無事に行きついた?

あたしは事実を知るのが怖くて目が開けられなかった。

「フジミユ。息してる?」

 クロエまでダメだった?。

「おい、いつまで寝てる」

 アレクセイ?

「ミユキ。目を覚まして」

 ミユウ?

「ミユキ、起きろ」

 まさかユウさんまで?

「ミユキ様。着きましたよ」

 目を開けるとまひるさんの顔があった。あたしはまひるさんに膝枕をしてもらっていた。

「ここは?」

 身を起こして周りを見ると、葦が生い茂る水辺だった。

あたしはこの場所に見覚えがあった。

まひるさんが空を指さしている。

見上げると平らな屋根だった。

いや屋根でなく地面だ。そして周囲が石の壁で囲われていて、

「母宮木野の墓所!」

 そうすると、この水辺は、

「天井の血だまりです」

 あたしたちは墓所の血溜まりに浮き上がったのだった。

「沈んで浮き上がるって、こういうこと?」

「そうです。けちんぼ池は墓所の血溜まりとつながっていたようです」

 だからエニシの切り替えができたり、赤い糸が垂れて来たのか。

 ユウさんが小さくジャンプすると、瞬時に逆さになって上の地面に立った。

みんなも真似をして天井に降りて行く。
 
まひるさんがあたしの手を取って立たせてくれた。

「さあ、一緒に」

 あたしはまひるさんと手を取って天井に飛び降りた。

 地面に立つと少しめまいがした。ぞわぞわとした感覚もあった。

苔むした石室。たしかにここは母宮木野の墓所だった。

ユウさんが出口の石扉に手をかけて言った。

「みんな。帰ろう」

 ユウさんがミユウを側に呼んで手を握る。
 
まひるさんがアレクセイの手を取ってその後ろに付いた。
 
あたしはクロエの手を握る。クロエも強く握り返してくれる。
 
クロエの薬指とあたしの薬指を繋ぐ赤いエニシの糸が見えていた。
 
二人のエニシは永遠だ。誰にも断ち切ることなんて出来ないと確信した。
 
 ユウさんが石扉を押し出した。みんなで出口の通路をくぐる。
 
やがて石扉の隙間から真っ白い光が差し込んで来た。

ユウさんが立ち止まり石扉をけり倒した。
 
光が通路に満ち溢れる。
 
そのまばゆい光の中に、あたしたちは新たな一歩を踏み出したのだった。


「第三部 完」
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