「夕霧物語」阿波の鳴門屋炎上

文字数 1,698文字

あたしが鬼子神社に着いたのは、既に月も西の空にかたむきかけた深更だった。

月明かりの下の鬼子神社は、窪地の中にあって境内を薄が覆いつくしていた。

ぼうぼうたる薄原に足を踏み入れると、下は湿地でぬかるんで歩きづらい。

膝まで水に浸してやっとたどり着いた社殿は倒壊寸前、柱や壁はすでに朽ちかけようとしていた。

ここで夕霧太夫が望んだその時が来るまで待てばいいのだ。

あたしはそう思って社殿の月の光の射す場所に腰を据えた。

さわさわと風に揺れる薄に目をくれる。

森から気味の悪いけものの鳴き声が聞こえる。

ここらは山の怪が棲むと聞いたことがあった。

いないはずの人声が聞こえて来る。

社殿の暗がりに何かが潜んでいるような気がする。

なにがあろうとも今ここで起きることは夕霧太夫の想いのうちなのだ。

あたしの気持ちは落ち着いていた。

 なん(とき)たったろう。

月が山陰に隠れてそろそろ東の空が白みかけてきていた。

「伊左衛門や、戻っておいで」

辺りを見回したが誰もいない。

しかし、それは確かに夕霧太夫のお声に違いなかった。

「はい、太夫」

そう答えるとあたしは鬼子神社を後にした。

 山道を再び駆けに駆ける。

来た時とは違って知った道になったせいか楽に走れた。

それに、夜明けも近づいてきて道も見やすくなっている。

だが、途中のだらだら坂でひだるくなった。

ひだる様に憑りつかれないよう、すぐに掌に米の字を書いて飲み込んだ。

ひだる様とは空腹の旅人に憑りつく物の怪のこと。

憑りつかれれば、魂を抜かれて成り代わられてしまう。

 息つく間もなく走り、山並が開いてようやく宿場が遠く見晴るかせる場所まできた。

すでに東の空は赤く染まって街道は朝を迎えようとしていた。

あたしはその光景を見て、急いでいた足を止める。

一歩二歩とその場に立ち止まり、宿場の様を遠望する。

あれはなんだ?

最初は状況を飲み込めなかった。

宿場にありえないほど太い煙の柱が立ち昇っていたから。

そしてよく見ると、下の方が赤く染まっている。

火柱だった。

心なしか鐘を打ちならす音も聞える。

宿場が火事に見舞われたのだ。

見るからに大きな火事。

あたしは胸騒ぎがした。

嫌な想像がどんどん頭の中に浮かんでくる。

あたしは再び駆け出した。

今度はその火柱へ向かって。

 あたしが宿場に着いた時は、火柱は煙だけに変わっていて、宿場全体に厚く煙の層が出来、焦げ臭いにおいに包まれていた。

朝早い時間なのにほぼすべての住民が中道に出ていて、火事のことを話し合っていた。

「太夫が何人も火にまかれたってさ」

「阿波の鳴門屋だって」

「おいたわしや、夕霧太夫も」

心がざわざわした。

夕霧太夫はあたしに御自身の寿命を告げられた。

でも、決してこんな風ではない。

きっと、あたしがお側でお仕えするのを待っていらっしゃる。

だから、あたしは夕霧太夫のもとへ急いだのだった。

 阿波の鳴門屋は全て焼け落ちあるべき場所に巨大な黒い山ができていた。

あたりは焼け出された人や目も当てられないけが人が地べたに蹲っている。

(こも)を掛けられているのは可哀そうな方々の骸だろう、法師らが念仏を唱えて差し上げていた。

生きて焼け出された者がかたまっているその中にひいらぎがいた。

「なにがあったのですか?」

と聞くと、ひいらぎはその震える唇で話してくれた。

八百萬(やおまん)屋のご亭主の徳衛門さまが」

八百萬屋とは宿場一の大店(おおだな)だ。

徳衛門さまは、太夫の座敷に足しげく通っていた清衛門さまのお兄様でもあって、子がないせいで清衛門さまを溺愛して好き放題にさせてきた御仁だ。

「遊女病みの疑いを夕霧太夫に掛けられて、御座敷に踏み込まれたのです」

清衛門さまは先月遊女病みで亡くなられたと聞く。

しかし、夕霧太夫は遊女病みなどではなかった。

完全な言いがかりだ。

「一旦はまめぞうたちに追い払われたのですが」

彼らが徳衛門を子ども扱いにするのが目に見える。

「夜中に大勢で押しかけてきてお店を打ち壊し、火を放ちました」

大店にはよからぬ者たちが出入りしているという噂を知っていた。

「夕霧太夫はどうされましたか?逃げ延びられたのでしょう?」

と尋ねると、ひいらぎは目の前の黒山を指さして、

「あすこに」

と言って泣き出したのだった。

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