「書かれた辻沢 86」

文字数 1,901文字

「気分はどう?」

 公民館の玄関でコンバットシューズを履きながらクロエに聞いた。

「ずいぶんいいよ。でも大丈夫かな?」

 クロエは鬼子神社までにまた発現の発作に襲われることを心配しているのだろう。

ヘッドライト付きのヘルメットをクロエにかぶせてあげながら、

「紫子さんは月の南中までは変わらないって」

 と答えると、

「ううん、このまひの制服さ、超人ハルクみたく引きちぎっちゃわないかなって」

 そっちか。なるほどユウさんが青墓で発現したとき、元に戻ったユウさんは丸裸だった。

クロエはこれまでそういうことはなかったけれど、今回は特別な潮時だ。

いつそうならないとは限らないのだった。

「ミユキちゃんが手をつないであげてたら大丈夫と思うよ」

 と、玄関の外であたしたちを待っていた紫子さんが言った。そして、

「おまじない掛けといたからね」

 とあたしに向って自分の薬指を指さした。

あたしは左の薬指を見てみたが、何か変わった感じはなかった。

でも、紫子さんがそういうのだから大丈夫なんだろう。

「よかったね」

「うん」

 玄関を出ると紫子さんが天頂に昇ろうとしている満月を見ていた。

「いつになく真っ赤な月ですね」

とあたしが声を掛けると、

「地獄染めの月。宿世の月よ」

 と紫子さんは歌うように言ったのだった。

 クロエとあたしは手を繋ぎ、参道入り口へ向かってバス通りを歩き出す。

振り向くと通りまで出てきた紫子さんが手を振っていた。

それに二人で応えて前を向く。

 参道入り口の三本足の鳥居が見えた。ヘルメットのライトを準備する。

ここからは山道を歩いて約1時間で鬼子神社に着く。

暗闇の上にいつも足下が悪く誰でもが難渋する参道だった。

 そこに残るあたしたち鬼子の記憶の糸の数々。

ユウさんとミユウが紫子さんと歩いた時のもの。

あたしが紫子さんと歩いた時のもの。

クロエが紫子さんと歩いた時のもの。

あたしたちはいつだって紫子さんと一緒だった。

「きっとお帰りよ。ここで待ってるからね」

 さっき、そう言って別れたばかりなのに、もう二度と会えないような気がして涙がこみ上げてきてしまった。

「フジミユ、泣いてないで行くよ」

 とクロエが言ったけれど、自分なんかずっと泣いてるじゃん。

 参道を歩き出して今回がこれまでとは違う潮時なのだというのを思い知った。

暗がりという暗がり、木々の合間や下草の中にヒダルたちがうようよとうごめいていたからだ。

その全部の意識があたしと、特にクロエに向けられていた。

 クロエとあたしが一歩前に進むと、それに合わせて森全体が一歩前進する。

止まると森全体がその場で静寂する。

まるで森が生き物で呼吸をしているみたいだった。

 参道の途中の休憩場に着いた。

あたしは疲れた様子のクロエを丸太のベンチに座らせた。

「疲れたね」

 額ににじむ汗を拭いてあげながら言うと、

「うん。でも平気」

 と返事をした。

 ここからは辻沢の町が見下ろせる。

立ち上がって見下ろすと所々に町の灯りが瞬いているのが見えた。

その中に真っ黒に広がるのが青墓の杜の森影だ。

 今日あたしたちはあそこへ行く。そしてミユウと会うのだ。

そう思うと胸がぎゅっとなった。

 グウ。

クロエのうめき声が背後でした。

意識を青墓に向けていたせいでクロエの変化に気がつかなかった。

慌ててクロエを見ると、下を向いて肩で息をしながら口から糸のようなよだれをたらしていた。

あたしは急いでクロエの横に座ってクロエの手を握った。

そのクロエの手はひどく冷くガサガサしていた。

「フジミユいなくならないで」

「ごめん。クロエ」

 あたしにはちょっとのことが、クロエには突き放されたような気分だったと思うと申し訳なかった。

「もう放さないから」

 そういうと、クロエは、

「絶対だよ」

 と言って再び金色に変わってしまった瞳をあたしに向けたのだった。

 しばらくそこでクロエが落ち着くのを待った。

その間もヒダルはあたしたちを十重二十重に囲繞していて、ヘッドライトの光のギリギリまで近づいて来ていた。

あたしが首を振るとヘッドライトの光が照らしたあたりにいたヒダルが、音もなく暗闇に逃げ隠れるのを何度も目にした。

 ここにいたらいつヒダルの餌食になるかわからない。

あたしはまだ調子が戻らないクロエを立たせるしかなかった。

「クロエ。行こう」

 と言うと、苦しそうにしていたクロエは無言で立ち上がって、あたしに銀色の牙をむき出しにした。

「ヒッ!」

 それを見てあたしがのけぞるとクロエは、

「失礼だな。渾身の笑顔を」

 と言った。

ともあれいつものクロエに戻ってくれたようだった。

 こうしてクロエとあたしは赤い満月が南中する前に鬼子神社にたどり着くことが出来たのだった。
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