「辻沢日記 37」

文字数 2,187文字

 社殿に入ってきた夜野まひるは、手にピクニックバスケットを提げていた。

「あら、お客様でしたの? これで足りるかしら」

 と笑顔で言った。

「まあ、ほとんどこいつが食べるけどね」

「ちょっとユウ」

 夜野まひるにあんまり変なこと言わないでほしい。

 バスケットの中身はサンドイッチとフルーツだった。彩りがきれいでおいしそうだ。

あたしが手を出し辛そうにしているのを見て夜野まひるが、

「ご遠慮なく、召し上がれ」

 と言っていくつかを用意した紙皿に取り分けて勧めてくれた。

あたしは恐縮して手に取って、おずおずと口にした。

「おいしい」

 この世の食べ物とは思えないほどおいしかった。

セレブの食べ物とはあたしたちが普段食べるのとはこんなに差があるんだと感激した。

「そりゃうまいだろ。裏のイチジクに比べたら」

「ユウ死にたいの?」

 睨んでやると、ユウは知らぬふりでサンドイッチを手に取った。

 その野菜サンド一つ食べただけであとはまったく手を付けようとしない失礼なユウが、

「見なかった?」

 と言った。

夜野まひるの出現であたしはすっかりよそ事になっていたけれど、こうなったのは杉並木にいたパジャマ姿の少女だった。

「見ましたよ。でも、あたくしに気づいたらどこぞへ行ってしまいました」

「だって。ミユウどうする? 帰るかい?」

どうするって言われても……。

今日の実測結果を持って帰って今晩中に図面にプロットするのは理想だけど、今更な感じはするし。

パジャマの女の子だって、まだどこかに潜んでいないとも限らないし。

まひるさんはどうするのかな?

「心配すんな、こいつに送ってもらうから」

 いやいや、そんなお手間をおかけするわけにはいきませんので、あわわわわ。

「や、山道、暗いし遠いし、迷惑だから」

「いいえ、歩くのはすぐそこまでで、その先は車でお送りしますので」

 鬼子神社へ来る方法は二つある。

今朝あたしが歩いて来た四ツ辻からの山道を使うのと、尾根を一つ越えたところを通る峠道から林道を入る方法だ。

林道は神社裏の斜面に通じている。

夜野まひるは峠道の林道入り口に車を停めて来たのだろう。

 ユウは最初の一つを食べた後はまったく手を付けなかった。

夜野まひるもまったく食べようとしない。

だから、ほとんどのサンドイッチとフルーツをあたしがいただいて夕食は終わった。

夜野まひるがピクニックバスケットに紙皿や紅茶のポットをしまい始める。

「とってもおいしかったです」

あたしがランチシートを畳んで手渡しながらそう言うと、

「お口にあったみたいでよかったです」

と夜野まひるはほほ笑んでくれた。

 穏やかな時間が流れた。

夜野まひるがユウが言った冗談で笑っていた。

あたしもこんなにくつろいだユウを見るのはいつ以来だろうと思いながら、その時間に身をまかせていた。

 しばらくして、ユウが軒の上の額絵馬を見上げて、

「やっぱり欠損があるよな」

と言いった。

 確かに、あたしたちの記憶の中の夕霧物語とこの額絵馬とでは場面構成に異同はある。

しかし、それはメディアの違いであって同じ原作でも映画とマンガとで同じに語ろうとしても無理なのと一緒だ。

そうだとしても、この額絵馬は一つの絵馬にその場面で語られるべきことは詰めに詰め込んでよく補完してある。

あたしには記憶の中の夕霧物語とこの額絵馬とは完全に対照関係になっていると思えた。

だから欠損といわれてもピンとこない。

「よく描かれてると思うけど」

というと、

「いや、額絵馬の事じゃないよ。夕霧物語自体の話」

あたしに向き直って、

「夕霧物語って伊左衛門の一人称視点だよね。伊左衛門の見たことで成り立ってる」

と言った。

たしかにあたしの記憶の中も視点は伊左衛門のものだ。

夕霧太夫やまめぞうたちの視点に切り替わることはまったくない。

「肝心な場面が抜けてるんだよね」

あたしはこれまで夕霧物語に疑念をはさんだことなどなかった。

この物語はこれを記憶するものにとって神話だからだ。

神話とは信じるか信じないかはあっても、その内容を玩味するものではないだろう。

それがどんなに不条理であったり滑稽であったりしてもだ。

「そこがあればすぐに見つけられるのにな」

ユウがぼそっと言った。

「けちんぼ池でしょうか?」

夜野まひるが言った。

そうだ、ユウの探し物はけちんぼ池だ。

あたしにもユウが言いたいことが分かった。

夕霧物語で欠けているのは、まさにけちんぼ池を見出す場面だった。

 ひだる様の大軍を前に、まめぞうたちが斃れ一行が窮地に陥るさなか、伊左衛門が夕霧太夫のために活路を切り開く決心をする。

そこまでははっきりと記憶されている。

でも、それに続くのは二人がけちんぼ池で再生のときを迎える場面だった。

激闘の様子や死地を脱してけちんぼ池にたどり着くまでが抜けてしまっている。

それをユウは欠損だと言っているのだった。

なら、それはどうしてか。

ユウの瞳がロウソクの光で金色に輝いて見えた。

「鬼子だから、って言いたい?」

「そう、この時伊左衛門は潮時を迎えていた。だからその間の記憶がない」

面白いと思った。

絶対と思えた神話にも解釈の余地がある事を知った。

それはエニシに縛られたあたしたちにも違う道があることを思わせた。

ワクワクが止まらなかった。

「まあ、夕霧太夫が何者かが残るけどね」

もし夕霧物語を読み替えることが出来たなら、きっとそれは未来のあたしたちの原点にして分かれ目になる。
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