「辻沢日記 41」

文字数 1,497文字

 あたしは社殿に取って返し、コンべとスケッチブックをもって来た。

その湧き水地点を、境内マップにトレースするのだ。

 水のせいで最初は難儀したけれど、コツを掴めばなんてことはない。

水の澄んだところを探し、足で湧き水ポイントを探る。

そこに手頃の棒を指してコンべの端を固定し、一番近い社殿までの距離を2カ所図る。

そうして位置を決めておいてスケッチブックにトレースしたら次を実測する。

時間が経つと自然と水が澄んでくるので、曳き波を蹴立てて歩きまわり、水を濁してしばし待つ。

すると湧き水の部分から水が澄んでくるので実測をする。

そして時々社殿に戻らなければならない。

夏とはいえさすがにずっと水中に足を浸していると、しびれて来るので足先を温めるためだ。

 めっちゃお腹がすいてきた。時計は12時になろうとしていた。

大方の湧き水ポイントをトレースし終わった感じがしたので、お昼にする。

ユウの分もと紫子さんが昨日の倍量おにぎりを持たせてくれたのだけれど、すきっ腹には代えられず全部食べてしまった。

ユウはどうせ夕方に戻るって言ってたからいいか。食べ終わって満腹のお腹になってタツノコ太郎の話を思い出す。

太郎の母は、みんなが働いている間に我慢ができずにみんなの分の昼飯を食べてしまって龍になった。

今、あたしはユウの分のおにぎりも食べてしまった。

だからあたしは竜に……。

なるわけないし。

 すこし早いが、実測結果をもって四ツ辻に帰ることにした。

遅くなったらきっとパジャマのあの子に会ってしまう。

今の時間なら明るいうちに四ツ辻にたどり着けそうだった。

どうせ見ないに決まってるけど、ユウが心配しないようにメールして鬼子神社を後にする。

 雨は止んだけど、空は雲に覆われていたので森の中は暗かった。

山道を歩いて気になるのはやはり森の下草を分けて付かず離れずについてくる音だった。

 もしそれが大学にまで侵入してきたような存在なら、あたしが鬼子神社の結界を出た途端に襲って来ただろう。

ところが今付けてきているのはガサガサと音を立てながら追跡してくるような手合いなのだ。

あまりに知能が低い。動物かとも思う。

腹をすかせた山犬か。ならば群れていてもよさそうだし。

そうか、ヒダルなのかもしれない。

「ヒダルはね、鬼子が弱るとすぐに嗅ぎつけて近寄って来るよ」

 いつだったか紫子さんが言っていた。

ヒダルだとすれば、なんであたしに? 

あたしはそんな弱ってはいないと思うんだけど。

 四ツ辻との中間地点の見晴台まで来た。

といっても少し開けた場所に朽ちかけた丸太が一本横たえてあるだけのスペースなのだが。

いつもならそこから辻沢の市街が見晴るかせるはずだった。

しかし今日はここは雲の中、足下の木立さえ見えないほどの視界だ。

今朝別れたユウはこの雲の中のどこかであたしのことなど忘れて自分だけの愉悦に身を任せていることだろう。

 まだ日没には早いけれども先を急ぐ。

もしパジャマの少女が現れれば屍人間違いなしだし、十に一つ逃げ延びたとしても瀕死だろうからヒダルの餌食だ。

いずれにしてもいたいけな女子のまま生き残ることは望めなさそうだ。

 街道に出て歩いている間も、森の下草はカサカサと鳴っていた。

大きなカーブを曲がって最初のサンショウ畑の手前のお地蔵さんまで来ると、正体不明の音は聞こえなくなった。

四ツ辻の結界を嫌ってどこかへ行ったのだろう。

やっと一息付ける。

西の空を見ると晴れ間が出ていてすでに茜色に染まり始めていた。

四ツ辻公民館の脇を通って紫子さん宅へ帰る。

玄関の前に立つと、懐かしい匂いがしていた。

辻沢の郷土料理、サンショウ肉みそうどん。

山椒の実をふんだんに使う。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み