「書かれた辻沢 1」
文字数 2,200文字
朝の7時。
潮時の意識の閾にいるクロエを調 邸に送り届けて、やっと今ベースのロッジに戻って来た。
今日は疲れはてた。
走り通しの汗が冷えて寒気もする。風邪ひいたかも?
ミユキに借りたカレー☆パンマンのパーカーすぐ洗濯しなくちゃ。
何もしないでベッドに潜り込んで眠てしまいたいけど、それが先。
それと、クロエの今夜の行動記録を野帳からノートに写さないと。
今回の潮時もクロエは精力的によく動いた。
基本は走りっぱなし。
時々立ち止まってはそこいにいる誰彼となく交感してまた走る。
距離にしたら一晩でフルマラソンぐらいは走ったんじゃないだろうか。
まあ、数百キロを踏破することもあるクロエにしてみれば、水辺でパチャパチャ程度かも知れないけれど。
あたしは、そんなクロエを位置情報で見極めながら追いかける。
クロエのスマフォにアプリを仕込んでいるのだ。
それでもクロエは所構わず突っ込んでいくから、追いかける方は大変なのだった。
街中の時はいい。
見失わないよう、離されないように気を配るだけだから。
それが危険な場所に入って行かれた時は、こっちも覚悟しなければいけない。
辻沢で言えば地下道や青墓の杜だ。
時として、屍人やヒダルのような危険な存在に遭遇しないとも限らないからだ。
幸い今回は、辻沢の街の外は西山地区の山中を駆け廻っただけで済んだ。
クロエは木々の間をすりぬけ、急峻な斜面を易々と登っていく。
あたしは下草に足を取られて木枝にしがみついたり、崖から落ちそうになって近くの木の根っこや雑草に捕まってギリギリ助かったり。
これも普段の鍛錬とボルダリングのおかげだ。
それは嘘。
あたしが鬼子のはしくれだからなんとかついて行けてるのだ。
潮時前になるとそわそわするのはクロエのお世話が控えているからだけじゃない。
あたし自身が潮時に何かを感知しているからだと思う。
いざ潮時になるといつもより力が沸いて来る気もする。
漲るというか。
クロエのおばあちゃんから鬼子使いの任を引き継いでからそれを特に強く感じる。
だからクロエはもともとあたしのエニシだったんじゃないかと思うときがある。
大学生になるまで出会わなかったけれども、本来は固い絆で結ばれるはずの二人だったのじゃないか。
ミユウとユウさんのような。
もちろんクロエのおばあちゃんが亡くならなければ、今もあたしはクロエの鬼子使いになっていなかった。
この大役が回ってきたのだって、急なことで他に人がいなかったからだ。
でも、あたしが鬼子使いを引き継ぐと申し出た時、鞠野先生は、
「これも、エニシかもしれないね」
と言ってくれたのだった。
すごく嬉しかった。
あたしは、これまで半身で生きてきた。
自分の片割れを失ったままの気がしていた。
それは紫子さんに言われる前からずっとそうだった気がする。
小学校三年の初夏だった。
施設の先生やお友達とお別れをして、紫子と名乗る女性と一緒に運転手付きの黒いミニバンに乗せられた。
ミニバンは施設を出てしばらくして山道に入り、ずいぶん長い間うねうねと曲がりくねった道を走ったのだった。
あたしは車に慣れていなかったから直ぐに気持ち悪くなった。
けれど、こんな綺麗な車内を汚しちゃいけないと思って、吐きそうになるのを必死に我慢してチャイルドシートにしがみついていた。
「着いたわ」
と助手席の紫子さんが後部座席でヘトヘトのあたしに振り向いて言った。
あたしは吐かなくて済んだことで、つい、
「ありがとう」
と、どこかのお嬢様みたいに返事をしてしまった。
それに紫子さんはクスっと笑い、
「どういたしまして」
と返してくれたのだった。
ミニバンを降りたのは屋根の大きな一軒家の前、紫子さんとあたしだけだった。
「今夜はここに泊まります」
と言って中に請じ入れてくれる。
玄関に入ると古い家屋の匂いにまじって爽やかな香りがしていたので、
「いい香り」
と言うと、紫子さんは、
「山椒よ。今朝収穫したのが、ほら、そこの物置にたくさん」
と指さした。
そちらを見ると玄関脇の小部屋に、鮮やかな黄緑色の実が山盛りの網籠が並べてあった。
あたしは、紫子さんに言われるままにお風呂に入り寝巻に着替え、山椒尽くしの夕飯を食べ、床に就いた。
初めて来た場所なのに何故か懐かしい気持ちがしたのを覚えている。
次の朝は早かった。
リュック一つの紫子さんと山に入る。
朝露が降りた山道を紫子さんに手を引かれて歩き続ける。
道が悪く、木の根や石段の道を歩くのはあのころのあたしの小さな足には堪えたはずだ。
けれど、新しく何かが始まるのが嬉しくて、そんなことお構いなしで歩き続けた。
それまでの広葉樹とは打って変わって森閑とした杉の木立の前に出た。
そこに変わった鳥居があって奥に参道が延びていた。
一礼して参道に足を踏み入れたが、そこは苔むしたごろた石が並べてあって、これまで以上に歩きにくい道だった。
「気をつけてね。足を挫かないように」
紫子さんは軽快な足取りでごろた石の上を飛び跳ねるように歩く。
あたしには真似できなかったけど、紫子さんが踏んだ所を選んで付いて行った。
石畳の難所を越えると目の前が開け、すり鉢の縁に出た。
すり鉢の底には神社があって、お日様が境内をぬるーく照らしていた。
「鬼子神社よ」
「?」
「覚えてなくて当然」
そう言われて思い出そうとしたがだめだった。
「ここに来たことあるの?」
「そうよ。あなたはここで生まれたの」
潮時の意識の閾にいるクロエを
今日は疲れはてた。
走り通しの汗が冷えて寒気もする。風邪ひいたかも?
ミユキに借りたカレー☆パンマンのパーカーすぐ洗濯しなくちゃ。
何もしないでベッドに潜り込んで眠てしまいたいけど、それが先。
それと、クロエの今夜の行動記録を野帳からノートに写さないと。
今回の潮時もクロエは精力的によく動いた。
基本は走りっぱなし。
時々立ち止まってはそこいにいる誰彼となく交感してまた走る。
距離にしたら一晩でフルマラソンぐらいは走ったんじゃないだろうか。
まあ、数百キロを踏破することもあるクロエにしてみれば、水辺でパチャパチャ程度かも知れないけれど。
あたしは、そんなクロエを位置情報で見極めながら追いかける。
クロエのスマフォにアプリを仕込んでいるのだ。
それでもクロエは所構わず突っ込んでいくから、追いかける方は大変なのだった。
街中の時はいい。
見失わないよう、離されないように気を配るだけだから。
それが危険な場所に入って行かれた時は、こっちも覚悟しなければいけない。
辻沢で言えば地下道や青墓の杜だ。
時として、屍人やヒダルのような危険な存在に遭遇しないとも限らないからだ。
幸い今回は、辻沢の街の外は西山地区の山中を駆け廻っただけで済んだ。
クロエは木々の間をすりぬけ、急峻な斜面を易々と登っていく。
あたしは下草に足を取られて木枝にしがみついたり、崖から落ちそうになって近くの木の根っこや雑草に捕まってギリギリ助かったり。
これも普段の鍛錬とボルダリングのおかげだ。
それは嘘。
あたしが鬼子のはしくれだからなんとかついて行けてるのだ。
潮時前になるとそわそわするのはクロエのお世話が控えているからだけじゃない。
あたし自身が潮時に何かを感知しているからだと思う。
いざ潮時になるといつもより力が沸いて来る気もする。
漲るというか。
クロエのおばあちゃんから鬼子使いの任を引き継いでからそれを特に強く感じる。
だからクロエはもともとあたしのエニシだったんじゃないかと思うときがある。
大学生になるまで出会わなかったけれども、本来は固い絆で結ばれるはずの二人だったのじゃないか。
ミユウとユウさんのような。
もちろんクロエのおばあちゃんが亡くならなければ、今もあたしはクロエの鬼子使いになっていなかった。
この大役が回ってきたのだって、急なことで他に人がいなかったからだ。
でも、あたしが鬼子使いを引き継ぐと申し出た時、鞠野先生は、
「これも、エニシかもしれないね」
と言ってくれたのだった。
すごく嬉しかった。
あたしは、これまで半身で生きてきた。
自分の片割れを失ったままの気がしていた。
それは紫子さんに言われる前からずっとそうだった気がする。
小学校三年の初夏だった。
施設の先生やお友達とお別れをして、紫子と名乗る女性と一緒に運転手付きの黒いミニバンに乗せられた。
ミニバンは施設を出てしばらくして山道に入り、ずいぶん長い間うねうねと曲がりくねった道を走ったのだった。
あたしは車に慣れていなかったから直ぐに気持ち悪くなった。
けれど、こんな綺麗な車内を汚しちゃいけないと思って、吐きそうになるのを必死に我慢してチャイルドシートにしがみついていた。
「着いたわ」
と助手席の紫子さんが後部座席でヘトヘトのあたしに振り向いて言った。
あたしは吐かなくて済んだことで、つい、
「ありがとう」
と、どこかのお嬢様みたいに返事をしてしまった。
それに紫子さんはクスっと笑い、
「どういたしまして」
と返してくれたのだった。
ミニバンを降りたのは屋根の大きな一軒家の前、紫子さんとあたしだけだった。
「今夜はここに泊まります」
と言って中に請じ入れてくれる。
玄関に入ると古い家屋の匂いにまじって爽やかな香りがしていたので、
「いい香り」
と言うと、紫子さんは、
「山椒よ。今朝収穫したのが、ほら、そこの物置にたくさん」
と指さした。
そちらを見ると玄関脇の小部屋に、鮮やかな黄緑色の実が山盛りの網籠が並べてあった。
あたしは、紫子さんに言われるままにお風呂に入り寝巻に着替え、山椒尽くしの夕飯を食べ、床に就いた。
初めて来た場所なのに何故か懐かしい気持ちがしたのを覚えている。
次の朝は早かった。
リュック一つの紫子さんと山に入る。
朝露が降りた山道を紫子さんに手を引かれて歩き続ける。
道が悪く、木の根や石段の道を歩くのはあのころのあたしの小さな足には堪えたはずだ。
けれど、新しく何かが始まるのが嬉しくて、そんなことお構いなしで歩き続けた。
それまでの広葉樹とは打って変わって森閑とした杉の木立の前に出た。
そこに変わった鳥居があって奥に参道が延びていた。
一礼して参道に足を踏み入れたが、そこは苔むしたごろた石が並べてあって、これまで以上に歩きにくい道だった。
「気をつけてね。足を挫かないように」
紫子さんは軽快な足取りでごろた石の上を飛び跳ねるように歩く。
あたしには真似できなかったけど、紫子さんが踏んだ所を選んで付いて行った。
石畳の難所を越えると目の前が開け、すり鉢の縁に出た。
すり鉢の底には神社があって、お日様が境内をぬるーく照らしていた。
「鬼子神社よ」
「?」
「覚えてなくて当然」
そう言われて思い出そうとしたがだめだった。
「ここに来たことあるの?」
「そうよ。あなたはここで生まれたの」